11日、銀河鉄道JR盛岡市に出て、沼宮内(ぬまくない)行きの県北バスで石川啄木記念館と渋谷尋常小学校旧校舎を訪問した。7年前にも一度来たことがある。
盛岡市指定文化財になっている旧渋谷尋常小学校は、1888(明治17)年、旧渋谷村の愛宕神社の脇に村民の寄付により650円で建設された。当時の校舎は木造二階建てで、一階は職員入口と廊下、教室があり、二階は廊下をはさんで三教室があった。
約50年間使用され後、地区の公民館として使われ、1967(昭和45)年、老巧化により取り壊されることとなったが、啄木の母校であり、代用教員時代に教鞭をとったこともあるゆかりの校舎であり記念館敷地内に移転保存された。
現在の建物は、2度の移転や改修がおこなわれ、柾屋根造り、連子格子、囲炉裏のある溜まり場など明治前期の面影が残されており、現存する学校校舎として県内では最も古い建物の一つである。
隣にある建物は、啄木が明治39年から同40年、代用教員の教壇に立った頃に生活していた借家である。生徒の指導にあたる一方、この二階で書いた小説には、有名な「雲は天才である」や「面影」などがある。
「ふるさとの 山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな(一握の砂)」
啄木は僧侶であり歌人であった父の姿を見て自然豊かな環境で育った。盛岡中学校ではことばの持つ魅力に引かれていった。「不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心(一握の砂)」
代用教員も一年半ばで退職、故郷渋民村を去って北への漂泊、新聞社を函館、札幌、小樽、釧路と転任した。「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる(一握の砂)」創作生活に賭けて北海道から単身上京、執筆活動を続けながら新聞社に勤めた。だが啄木は病魔に冒され26歳の若さで短い生涯を閉じた。「やわらかに 柳あをめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに」
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