2013年8月26日月曜日

山形 山形城址(霞城公園)

山形城(霞城公園)は、第11代当主・最上義光(もがみよしあき)が増築した平城で、地元では霞城(かじょう)公園と呼ばれている。昨日とは打って変わり夏の日差しが眩い、初めて山形市を訪問、お城を除いて見た。
山形城は、第11代当主・最上義光(もがみよしあき)が増築した平城である。
二の丸、東大手門は新しくなった。山形駅から徒歩で約10分、お城の大きさは約70万坪で本丸・二の丸・三の丸で配置され現在ではそのほとんどが失われており復元や跡地を残すのみとなっている。
城の復元が資料に基づいて進められている。
霞城公園外濠。お城が築かれたのは最上氏の初代「斯波兼頼(しばかねより)」がこの地にきて居城を構えたとされている。その後、子孫は出羽国最上郡山形の地名から「最上(もがみ)」の姓を名乗ったという。
東大手門では兼頼から数えて11代目が義光(よしあき)の代に、関ヶ原合戦の戦功により57万石の大々名となり、実質100万石の城下町として山形は繁栄した。 しかし、義光の孫・家信(義俊)の代に、家中不取締りの罪により、最上家は没収された。
その跡に鳥居忠政(24万石)が入部、忠政は山形城の本丸・二ノ丸を改築、以後、城主は11氏(幕僚2回)が頻繁に交替し、最後の城主水野氏は僅か5万石で明治維新を迎えた。
最上義光歴史館。済生館は私立の病院、国重要文化財のしてされている。山形城は二の丸から三の丸の方が、本丸より高く作られていて、これは全国的に見てもまれなお城である。源氏の足利家の血をひく祖・斯波兼頼が阿弥陀仏を礼拝、最上家は多くのお寺を残している。仏の信仰心も強く出入り口を11箇所も作ったのは『吉』の字を表し、縁起がよいものとして作られたという。
22歳の若さで家老職を告いだ水野元宣公の銅像。豊烈神社は城主、水野家を祀った。山形城は二の丸から三の丸の間が圧倒的に広く235万m2、三の丸内には武家屋敷だけでなく、商業やお寺なども組み入れている。
兼頼公が城の守り神とした歌懸稲荷神社。三の丸、看板。霞城公園内は桜の名所でもあり、約1500本のソメイヨシノ・エドヒガンが咲き、花見の季節になると屋台が並び人々が賑わう。 二の丸・東大手門を出てすぐ近くには最上義光歴史館がある。隣接して走る奥羽本線が観桜のために速度を落として通行するという。
9/1に決まった山形の芋煮会のポスター。また豊烈神社は城主、水野家を祀ったところで、三の丸の堀は埋められてほとんど面影を残していないが歌懸稲荷神社は、兼頼公が城の守り神とした。 史跡として山形城の復元が資料に基づいて進められ、既に東大手門の復元が完了しており、幕末当時の風景を再現している。山形城が別名『霞城』と呼ばれるようになった由来は、関ヶ原の合戦の頃に直江兼続(上杉軍)が富神山の麓からお城を十日間見ていたが霞がかかって何も見えなかったことから『霞城』と呼ばれ、現在もそれが定着していて『霞城公園』と呼ばれている。
<山形城址(霞城公園)>
場所: 山形市霞城町1-1 電話 023-641-1212(山形市公園緑地課)
交通: JR山形駅から徒歩10分程度
時間: 随時入園可能
      ※東大手門の開門時間/5:00~22:00
      ※車での入園が可能な時間/5:00~22:00
定休: 無休

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