神社の伝えでは、この地は経基の邸宅のあった場所で、その子源満仲(みつなか)が961年から三ヵ年の応和年間に社殿を建立したといわれる。その後、いつしか荒廃していたが、1700(元禄13)年、当社の北隣の遍照心院の南谷上人が幕府に請うて再建し、この神社を遍照心院(別名大通寺)の鎮守とした。
江戸時代に清和源氏の子孫たちが六孫王神社を再興し、1707 (宝永4) 年に盛大な祝儀を行ったと謂われていて、これが宝永祭の起源と云う。
本殿には「六孫王」と呼ばれていた経基、相殿に天照大神(あまてらす)、八幡大神を合祀している。本殿背後の石の基壇は経基の遺骸を納めた場所で神廟といわれている。
源氏ゆかりの神社として、江戸時代には武家の信仰が厚かったことは、境内石燈篭に松平吉保(よしやす)など諸大名の寄進者名が見えることでしのばれる。境内北の弁天堂内には六孫王誕生水があり古くから京都名水の一つとされている。
宝永年間に再興した例祭は13時より行われた。
宝永祭が行われる前に、担ぎ手は“鳴りカン”を鳴らしながら神社へ来る。神輿庫から神輿を出し本殿の中に入れ、本殿内で神輿を祓い御霊を移し厳かに神事が執り行われた。神事が終わると神輿は境内に移動し、担ぎ手が差し上げを行った。境内にある会館の前では行列の出発を送る太鼓が奉納された。
宝永祭のメインは鬼だが、サービス精神が旺盛で、何処でもポーズしてくれる。この鬼は氏子範囲にある羅城門の謡曲「羅生門の鬼」から採られたもので、露払いの鬼が神輿の前を先導する。
八条通りを東へ大宮通り南下、東寺前を通過、そして祭列一団が「大通寺」に到着する。九条通りを西に進み旧千本通りを北上するという。
四匹の鬼は、東西南北の四方を表し、青龍/白虎/朱雀/玄武という。
行列は、先太鼓/太刀/弓矢/四鬼/神輿と続き、神輿は部分的に担ぎ、時折、差し上げも行いながら台座で移動した。通りには家族に連れられた幼い子たちが、鬼を見て恐怖で泣き出す子もおった。
氏子地域町内を午後五時頃まで練り歩いて巡行する秋祭り、暑い日であった。
清和天皇の孫で清和源氏の祖と仰がれる源経基、「清和源氏発祥の宮」と称した六孫王神社、10月の例祭は「宝永祭」という。
<宝永祭 六孫王神社>
住所:京都市南区壬生通八条角 電話:075-691-0310
拝観:境内自由
交通:JR各線、近鉄京都線、地下鉄烏丸線「京都」より徒歩13分。
市バス 16系統「六孫王神社前」バス停より直ぐ。
江戸時代に清和源氏の子孫たちが六孫王神社を再興し、1707 (宝永4) 年に盛大な祝儀を行ったと謂われていて、これが宝永祭の起源と云う。
本殿には「六孫王」と呼ばれていた経基、相殿に天照大神(あまてらす)、八幡大神を合祀している。本殿背後の石の基壇は経基の遺骸を納めた場所で神廟といわれている。
源氏ゆかりの神社として、江戸時代には武家の信仰が厚かったことは、境内石燈篭に松平吉保(よしやす)など諸大名の寄進者名が見えることでしのばれる。境内北の弁天堂内には六孫王誕生水があり古くから京都名水の一つとされている。
宝永年間に再興した例祭は13時より行われた。
宝永祭が行われる前に、担ぎ手は“鳴りカン”を鳴らしながら神社へ来る。神輿庫から神輿を出し本殿の中に入れ、本殿内で神輿を祓い御霊を移し厳かに神事が執り行われた。神事が終わると神輿は境内に移動し、担ぎ手が差し上げを行った。境内にある会館の前では行列の出発を送る太鼓が奉納された。
宝永祭のメインは鬼だが、サービス精神が旺盛で、何処でもポーズしてくれる。この鬼は氏子範囲にある羅城門の謡曲「羅生門の鬼」から採られたもので、露払いの鬼が神輿の前を先導する。
八条通りを東へ大宮通り南下、東寺前を通過、そして祭列一団が「大通寺」に到着する。九条通りを西に進み旧千本通りを北上するという。
四匹の鬼は、東西南北の四方を表し、青龍/白虎/朱雀/玄武という。
行列は、先太鼓/太刀/弓矢/四鬼/神輿と続き、神輿は部分的に担ぎ、時折、差し上げも行いながら台座で移動した。通りには家族に連れられた幼い子たちが、鬼を見て恐怖で泣き出す子もおった。
氏子地域町内を午後五時頃まで練り歩いて巡行する秋祭り、暑い日であった。
清和天皇の孫で清和源氏の祖と仰がれる源経基、「清和源氏発祥の宮」と称した六孫王神社、10月の例祭は「宝永祭」という。
<宝永祭 六孫王神社>
住所:京都市南区壬生通八条角 電話:075-691-0310
拝観:境内自由
交通:JR各線、近鉄京都線、地下鉄烏丸線「京都」より徒歩13分。
市バス 16系統「六孫王神社前」バス停より直ぐ。
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