つづく・・・上京区にある京都御苑内には、約5万本の樹木が生育していて、御所の歴史と由緒ある景観を維持している。
京都御苑周囲の地区一帯は約63haの面積で国民公園に指定されている。
総面積は約92haで京都御苑は葵祭や時代祭など市内の中心部に位置し、観光にもオアシスにも好く利用しているが、国民公園は都市公園とは異なり、環境省が管理する公園である。
国民公園は東京の皇居外苑・新宿御苑と京都御苑の日本で三ヶ所しかない。
1869(明治2)年、明治天皇が東京遷都により多くの公家たちも東京に移住し、それまで御所周辺の約200余りの公家屋敷はすっかり荒廃していった。1877(明治10)年に京都に還幸された明治天皇が、京都御所一帯の荒れ果てた様子を見て深く嘆き、御所保存を命じられ、10年間で「大内保存事業」が進められたが、京都民衆の力のもと僅か6年間で復興が終り現在の京都御苑の始まりである。
さて今出川御門は北に位置し京都御所の朔平門に近く、近衛家は五摂家の一つで摂政・関白など多数が出世した。また御所炎上の際には屋敷は仮の皇居にもなったという。近衛邸跡の池の畔は、昔から糸桜の名所で桜の咲くころ、大勢の人が花見に訪れている。今出川御門の左は桂宮邸跡。
京都御所の鬼門位置に猿ヶ辻がある。
この猿は日吉山王神社(ひえさんのうじんじゃ)の使者だが、夜悪さをする為、金網で閉じ込めたと言う。一方、幕末のさなかの1863(文久3)年、公家の一人がこの付近で暗殺。猿ヶ辻の変という。
その向かい側に中山邸跡と祐(さち)ノ井がある。
中山忠能(ただやす)は幕末期、權大納言の要職でその娘、慶子(よしこ)を母とし、1852(嘉永5)年、祐宮「さちのみや(後の明治天皇)」が誕生した。
敷地内には産屋と井戸が遺っている。祐宮にちなんで祐ノ井と名付けられた。今出川口に出られる。
いよいよ寺町今出川を南下し石薬師御門、この辺りの森は“枝打ち”などせずに自然のまま放置し、枯れ枝が落下するので立て看板で注意を払っているが、野鳥の宝庫、鳥の囀りを聞きながら森で本と親しむのも好い。
散歩道を進むと真新しい壁は、京都迎賓館、「染殿第跡」で、平安時代前期に臣下として、最初の摂政に任じられ、摂関政治の礎を築いた、藤原良房の邸があった所と言われておる。
ここにある井戸は「染殿井」と呼ばれているのも、染殿第にちなんだものだという。あと、門は二つになった。
清和院御門の名の由来は、染殿第は、良房の娘・明子(文徳天皇の后で清和天皇の生母)の御所であり、清和天皇は譲位後、ここに移されて「清和院」になったという。なるほと、御門には深い意味が込められている。清和院御門をあとに大宮・仙洞御所の長い丙伝いに寺町御門へと歩いた。
寺町御門は百日紅が綺麗に咲き、北に大宮・仙洞御所、南に富小路広場があり、老若男女の方が散策や休養などスポーツの場やふれあいを楽しみに訪れていた。またトンボ池もある。
1949(昭和24)年、京都御苑は国民公園として広く開放され現在に至っている。
(完)
近衛邸跡の池の畔「孝明天皇」の歌
昔より 名にはきけども 今日みれば むべめかれせぬ 糸さくらかな
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