上御霊神社は地下鉄鞍馬口駅を南出口下る東へ300m鳥居・西門がある。上御霊神社は俗称で、正式名は「御霊神社」御霊(ごりょう)さんと呼ばれ親しまれている。
上京区東部の氏神様で平安京の守り神として崇道(すどう)天皇を祀ったのが始まりとされ、八柱を祀っている。平安時代の御霊社の一つで、怨霊を鎮めるために桓武天皇の勅願により造られた。
784(延暦3)年、桓武天皇は長岡へ都を遷した。ここで事件が起こった。
藤原種継暗殺事件である。当時、長岡京造宮司であった種継は早良親王と敵対しており、親王が暗殺事作の首謀者と見なされたのだ。
早良親王は、桓武天皇の同母弟である。
乙訓寺に監禁され、淡路へ配流されることになった親王は無実であることを訴え、自ら食を断った。そして10日余りが経ち、宮内卿、石川恒守らが淡路へ移送する途中、高瀬橋頭で絶命した。恒守は、そのまま早良親王の遺体を淡路へ運んで葬った。
異変が連続して起こったのは、それからである。桓武天皇の妻の藤原旅子が死に、ついで母の高野新笠、皇后藤原乙牟漏が次々と他界。さらに皇太子安殿の病気が長びいているのを占ったところ、皇位を廃された早良親王の祟りとでた。
朝廷はさっそく諸陵頭調使王(しょりょうかみずしおう)らを淡路国へ遺わし、奉謝を行った。
連続する天変地異、天皇の周辺に連続して起こる近親者の死。早良祟る、の思いは桓武天皇をはじめ為政者たち共通の思いであった。800(延暦19)年7月、桓武天皇はついに早良親王に「崇道天皇」の尊号を贈った。-『学研 天皇の本』-
これが上御霊神社の始まりとされる。
御霊とは、政争に巻き込まれて非業の死をとげた人の霊のことであり、当時はしばしば悪疫が流行し、これを御霊の祟りと考え、祀ったのである。
863(貞観5)年、三代実録条に、「所謂御霊者、崇道天皇、伊予親王、藤原夫人、及観察使、橘逸勢、文室宮田麻呂等是也」とあり、神泉苑で御霊会が行われている。
社殿は1755(宝暦5)年、禁裏の内侍所の建物を賜って造営したという。
天災や疫病が流行すると御霊をまって鎮め、災いを無くそうとした御霊信仰があり、人間関係や仕事などのストレスのこころの病気を治して、いつも平常心でいられるように、いまも人々は心を鎮める御霊神社のお守りを授かっている。
同神社では5月18日に御霊祭が行われ、境内の拝殿には提灯や巡行する三基の神輿も飾られた。つづく・・・
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