2009年11月27日金曜日

洛北・金福寺(こんぷくじ)

家康ゆかりの寺、圓光寺から細い路地を南へ歩くと金福寺がある。
金福寺は、臨済宗南禅寺派で号は佛日山(ぶつにちさん)という。
芭蕉庵の扁額が架けられた庭園への入口
金福寺の表門は大きくなく石段を上る「一乗寺下り松」と言えば、かの有名な宮本武蔵が吉岡一門と決闘をした辺り、東方に比叡の山が聳えている。金福寺の表門は大きくなく、石段を上る山門があり右手が庭園となる。平安初期の貞観6年(864)、慈覚大師・円仁の遺志により創建し、大師自作の観音像を本尊として安置した。色鮮やかなモミジ本堂
天台宗の寺院であったがその後、一時期荒廃していた。
江戸中期の頃、鉄舟(てつしゅう)和尚が再興し、臨済宗南禅寺派となり現在に至っている。その頃、鉄舟和尚は、俳人の松尾芭蕉と親交があったことから芭蕉がよく訪れていた。その後、和尚は庵を「芭蕉庵」と名付けたと言われる。
この庭園は東の高台(後丘)に芭蕉庵があるが後に荒廃するという。 蕪村は、庵を再建した後は一門とともに訪れて句会を開いた高台には芭蕉庵がある
70年ほど後、与謝蕪村(よさぶそん)は芭蕉を慕って金福寺を訪れたが「芭蕉庵」の荒廃に歎き再興した。蕪村は、庵を再建した後は一門とともに訪れて句会を開いたという。その縁で、境内に蕪村の墓地があり68歳で京都で没した。
蕪村は芭蕉没後、俳壇に新風を吹き込み「俳諧の中興者」といわれている。
多くの俳人が愛したのであろう、蕪村の弟子・江村月居、吉分大魯、呉月渓や画家の呉景文、森川曽文なども金福寺で眠っている。重文「夜色楼台図」68歳で京都で没した
また、金福寺の左手入口には“村山たか女”が寄進した弁天堂がある。
村山たか女は彦根城主・井伊直弼(いいなおすけ)の愛人であった。
直弼は江戸で44歳のとき、大老職に就任した。
幕府は、将軍の世継ぎ問題や開国問題で揺れに揺れていた。
この時、反幕府勢力(攘夷派)の弾圧が実行された。“安政の大獄”である。反幕府勢力の動静を探り、その情報を長野主膳を通じて幕府(大老)に密報を集める密偵(スパイ)をかってでていたのがたか女である。井伊直弼筆和歌と長野主膳像
文化6年巳年に生れた、巳(白い蛇)は弁天様のお使い。たか女は深く信仰された少しでも役立ちたいと直弼を恋慕う村山たか女は、やがて、この弾圧の反動を受け、万延元年「江戸城桜田門外の変」で攘夷派の先鋒・水戸藩士により井伊大老は暗殺された。村山たか女も、勤皇の志士捕らえられ、京都三条河原で生晒(いきさらし)にされたが3日後女僧に助けられた。たか女は、女僧となって金福寺に入り、名を「妙寿」と改め14年のあいだ直弼の菩提を弔った。たか女の筆跡、遺品など伝わっている
たか女のお位牌なお、たか女のお位牌、筆跡、遺品など伝わっているとともに詣墓がある。本墓は約400m北にある圓光寺境内の墓地にある。
また弁天堂・舟橋聖一作の「花の生涯」のヒロイン村山たか女(妙寿尼)は、明治9年9月30日金福寺に於いて67歳の生涯を閉じた。
高台の芭蕉庵からは西山連山が望め、紅葉も美しい。
眺めていると野鳥の囀りしか聞こえない静けさで心が落ち着く。

<金福寺>
京都市左京区一乗寺才形町20  
TEL075-791-1666  
交通:市バス「一乗寺下り松町」下車、東へ徒歩約6分
    叡山電車「一乗寺」下車、東へ徒歩約9分

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