会場付近は、梅小路蒸気機関車館特別企画やミニ新幹線体験乗車や、鍋まつり(中央卸売市場第一市場)などが行われた。オープニングステージでは園児たちの遊戯やコーラス・南京玉すだれ、一輪車やフォークダンスなど催された。
梅小路公園ふれ愛ひろばには今も街の顔である太夫による『島原太夫道中』の振る舞いを披露するイベントが行われた。地元嶋原商店街提供による、島原太夫が「かしの式」の儀式を披露された。
太夫が客と接見する際に杯を使って名を告げる儀式「かしの式」を実演、つづいて胡弓(こきゅう)を一曲奏で優雅な舞い姿を披露し、めったに見られない島原太夫のあでやかな姿に会場はうっとりとしていた。午後3時からは、嶋原商店街の大宮通側入口より島原大門までの約350mで『島原太夫道中』がある。
嶋原(しまばら)は「島原」とも云い正式地名は西新屋敷と言って花街の名称。1976年に京都花街組合連合会を脱会し、現在は輪違屋のみが茶屋営業を行っている。
国内最初の幕府公認の花街で当時は祇園よりも高い格式を誇っていたが、今では面影はほとんど残っていない。その後、1641年には朱雀野付近への移転が命ぜられた。以後「嶋原」の名称は、この移転騒動が“島原の乱”に似ていたためというが諸々説がある。
また島原大門の周りは壁や堀に囲まれ、出入り口として東の大門は元禄期に最も栄えた。しかし、立地条件が悪かったことや格式の高さが原因となって次第に衰えていった。明治以後は公家、武家の常連客が途絶え、さらに窮状に置かれるものの「太夫道中」などの行事で支えていた。昭和後期にお茶屋、太夫、芸妓の人数が減り、ついにはお茶屋組合が解散した。
現在は「大門」、「輪違屋」、「角屋」がその面影をとどめているだけである。お茶屋として営業を続けているのは輪違屋のみだけで、揚屋は営業は行っていないが角屋(重要文化財)は建築物として今も日本に唯一残る揚屋造の遺構である。
「太夫」とはもともと能楽や歌舞伎の舞台で秀でた者に与えられた称号であり、最初は京都の女歌舞伎で活躍した女性が「太夫」(舞太夫、能太夫)などと呼ばれた。しかし1629年に女歌舞伎が禁止されて以降、優れた技能、教養を持つ最高位の遊女の名として定着したものである。
太夫は通称「こったい」とも呼ばれ、置屋に所属して揚屋に派遣される(この形態が祇園等、他の花街に影響を与えた)。
かつては正五位の地位をも与えられた最高位の遊女であった。太夫はもと御所の公家、皇族が相手であったため、教養に長けた芸妓でなければならない。能や舞をルーツに持つとされる嶋原の太夫にとって「舞踊(現在は特定の流派はない)」さらに茶道・和楽器、唄、書道、香道、華道、詩歌、古典的遊び(貝合わせ、囲碁、盤双六、投扇興など)も必要とされ、話術も重視されている。
嶋原からは、八千代太夫、吉野太夫、夕霧太夫、大橋太夫、桜木太夫などの名妓が輩出した。また、戦後在籍していた太夫に、夕霧太夫、高砂太夫、九重太夫、薄雲太夫、若雲太夫、春日太夫、花雲太夫、花琴太夫などがいる。
祇園の舞妓、芸妓と同様の白塗りの厚化粧で、口紅は下唇のみに塗り、必ずお歯黒を付け引眉しないので江戸時代の半元服の習慣が今も続いている。公家文化の影響とも考えられ原則として鬘(かつら)を被らず、自毛で日本髪を結う。
帯は前で5角形に結ぶが、これは「心」の字を表すとされている。幕末には西郷隆盛、久坂玄瑞や桂小五郎、坂本龍馬・新撰組らが出入りしていた。
1873年には、のちに歌舞練場となる島原女紅場が置かれたという。
現在、太夫は花扇太夫、司太夫、如月太夫の3名である。京都を中心に「輪違屋」のお座敷のつとめの数々の行事やイベントに参加している。
「角屋もてなしの文化美術館」には蕪村の「紅白梅図」(重要文化財)や島原住吉神社もある。
残念な事に5年ぶりに「島原太夫道中」は降り出した雨で途中、中止になってしまった。重さ45kgにもおよぶ豪華な衣装に身を包み、素足に高下駄姿の太夫が独特の所作で、置屋から揚屋へ「内八文字」を踏んで練り歩く様子と傘持ちなど禿を引き連れ練り歩く姿は雨のため今回は写真撮影になった。
島原へのアクセス
JR山陰線丹波口駅下車 徒歩3分
市バス 島原口 徒歩約3分
市バス 梅小路公園前 徒歩約10分
梅小路公園ふれ愛ひろばには今も街の顔である太夫による『島原太夫道中』の振る舞いを披露するイベントが行われた。地元嶋原商店街提供による、島原太夫が「かしの式」の儀式を披露された。
太夫が客と接見する際に杯を使って名を告げる儀式「かしの式」を実演、つづいて胡弓(こきゅう)を一曲奏で優雅な舞い姿を披露し、めったに見られない島原太夫のあでやかな姿に会場はうっとりとしていた。午後3時からは、嶋原商店街の大宮通側入口より島原大門までの約350mで『島原太夫道中』がある。
嶋原(しまばら)は「島原」とも云い正式地名は西新屋敷と言って花街の名称。1976年に京都花街組合連合会を脱会し、現在は輪違屋のみが茶屋営業を行っている。
国内最初の幕府公認の花街で当時は祇園よりも高い格式を誇っていたが、今では面影はほとんど残っていない。その後、1641年には朱雀野付近への移転が命ぜられた。以後「嶋原」の名称は、この移転騒動が“島原の乱”に似ていたためというが諸々説がある。
また島原大門の周りは壁や堀に囲まれ、出入り口として東の大門は元禄期に最も栄えた。しかし、立地条件が悪かったことや格式の高さが原因となって次第に衰えていった。明治以後は公家、武家の常連客が途絶え、さらに窮状に置かれるものの「太夫道中」などの行事で支えていた。昭和後期にお茶屋、太夫、芸妓の人数が減り、ついにはお茶屋組合が解散した。
現在は「大門」、「輪違屋」、「角屋」がその面影をとどめているだけである。お茶屋として営業を続けているのは輪違屋のみだけで、揚屋は営業は行っていないが角屋(重要文化財)は建築物として今も日本に唯一残る揚屋造の遺構である。
「太夫」とはもともと能楽や歌舞伎の舞台で秀でた者に与えられた称号であり、最初は京都の女歌舞伎で活躍した女性が「太夫」(舞太夫、能太夫)などと呼ばれた。しかし1629年に女歌舞伎が禁止されて以降、優れた技能、教養を持つ最高位の遊女の名として定着したものである。
太夫は通称「こったい」とも呼ばれ、置屋に所属して揚屋に派遣される(この形態が祇園等、他の花街に影響を与えた)。
かつては正五位の地位をも与えられた最高位の遊女であった。太夫はもと御所の公家、皇族が相手であったため、教養に長けた芸妓でなければならない。能や舞をルーツに持つとされる嶋原の太夫にとって「舞踊(現在は特定の流派はない)」さらに茶道・和楽器、唄、書道、香道、華道、詩歌、古典的遊び(貝合わせ、囲碁、盤双六、投扇興など)も必要とされ、話術も重視されている。
嶋原からは、八千代太夫、吉野太夫、夕霧太夫、大橋太夫、桜木太夫などの名妓が輩出した。また、戦後在籍していた太夫に、夕霧太夫、高砂太夫、九重太夫、薄雲太夫、若雲太夫、春日太夫、花雲太夫、花琴太夫などがいる。
祇園の舞妓、芸妓と同様の白塗りの厚化粧で、口紅は下唇のみに塗り、必ずお歯黒を付け引眉しないので江戸時代の半元服の習慣が今も続いている。公家文化の影響とも考えられ原則として鬘(かつら)を被らず、自毛で日本髪を結う。
帯は前で5角形に結ぶが、これは「心」の字を表すとされている。幕末には西郷隆盛、久坂玄瑞や桂小五郎、坂本龍馬・新撰組らが出入りしていた。
1873年には、のちに歌舞練場となる島原女紅場が置かれたという。
現在、太夫は花扇太夫、司太夫、如月太夫の3名である。京都を中心に「輪違屋」のお座敷のつとめの数々の行事やイベントに参加している。
「角屋もてなしの文化美術館」には蕪村の「紅白梅図」(重要文化財)や島原住吉神社もある。
残念な事に5年ぶりに「島原太夫道中」は降り出した雨で途中、中止になってしまった。重さ45kgにもおよぶ豪華な衣装に身を包み、素足に高下駄姿の太夫が独特の所作で、置屋から揚屋へ「内八文字」を踏んで練り歩く様子と傘持ちなど禿を引き連れ練り歩く姿は雨のため今回は写真撮影になった。
島原へのアクセス
JR山陰線丹波口駅下車 徒歩3分
市バス 島原口 徒歩約3分
市バス 梅小路公園前 徒歩約10分
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