2009年11月10日火曜日

長岡京ガラシャ祭2009

京都府長岡京市・勝竜寺城公園一帯では、今年も「長岡京ガラシャ祭」が開催され、18回目を迎えた。
細川ガラシャ(本名・玉、1563/1600)は、尊厳と人間愛を貫いた
ガラシャが細川忠興と輿入れし、つかの間の幸せな新婚の時を共にした勝竜寺城安土桃山時代の装束に身を包んだ約900人の行列は長岡第六小学校を12:45に出発、長岡天満宮を左折してアゼリア通りに入り市役所へ西国街道(一里塚)南へ進む~JR長岡京駅を経由14:00ごろ勝竜寺公園に到着した。
その後、15:00からガラシャが細川忠興と婚礼の儀を再現した。ガラシャ夫人遺品手ぬぐいこの水は、夫忠興と勝竜寺で過ごした日々、水面にその姿を映した歴史とロマンが感じられる
戦国動乱の渦中に生きた悲劇のヒロイン、細川ガラシャゆかりの地・勝竜寺城公園一帯にはガラシャ通りもあり歴史とロマンの城として名高い。
南北朝時代、勝竜寺城を築いた平安時代、清少納言勝竜寺城は、暦応2年(1339)に細川頼春が京都へ進出してくる南朝方に対抗するため、北朝(足利尊氏)方の前線基地として築いたといわれ、京都盆地の南西部を防備する要所であった。また、永禄11年(1568)には織田信長が上洛し西岡一帯を攻略し、細川藤孝(のちの幽斎)に城が与えられ、堅固な城に改修した。
16歳の時に坂本城より、勝(青)龍寺城の息子、忠興に嫁いだ天正6年8月にお玉を妻に迎えたそれ以後ガラシャは中世の戦乱の大きな渦に巻き込まれ、子ども肉親兄弟と離別を余儀なくされ、丹後の山奥に幽閉された。明智光秀の三女で、本名を「玉」と言い、天正6年(1578)8月(今から430年前)に16歳で、織田信長の命により政略的に乙訓地域を支配していた勝竜寺城主の細川藤孝の長子・忠興のもとに嫁ぎ、幸せな新婚時代を過ごしていた。明智光秀の妻、熙子(ひろこ)は生活に困り自分の髪を売って金の工面をしたというキリスト教徒の侍女、清原マリア
ところが、天正10年(1582)父・光秀が主君信長にそむいた「本能寺の変」が起き、その後、光秀も討たれたため、ガラシャは「逆臣の娘」になった。
しかし、そんな中においても、貧しく弱い人々に身分の分け隔てをこえた人間愛の心を常に持ち続け、ガラシャはキリスト教に心の平安を求め、ついに洗礼を受け、細川ガラシャ夫人と呼ばれるようになった。
ところで、「ガラシャ」と言う名は洗礼名で『恵み』という意味だという!長岡京市住いのガラシャ役の方と忠興は、やがて結婚の予定で会場からは二度おめでたの拍手が起った!
ガラシャが細川忠興と「婚礼の儀」を再現したその2年後、豊臣秀吉の計らいで忠興との復縁を許された。
幽閉を解かれたガラシャは大阪城下の細川家屋敷、その頃秀吉がバテレン追放令を出しキリスト教を信仰することを禁止。忠興はキリスト教に改宗した家中の者を追い出したが、ガラシャは幸いにも発覚を免れた。
やがて、徳川家康と石田三成の関ヶ原の戦いが激化、三成は家康方の大名である細川家のガラシャを人質に取ろうとするが、ガラシャは拒み、兵に屋敷を囲まれると家臣小笠原少斎の槍で胸を突かせ悲劇的な最後を遂げた。細川護煕元首相の妻、佳代子さんやアメリカからの友好姉妹都市の人もおった
15時から婚礼の儀が再現した慶長5年(1600)7月、細川ガラシャは享年38歳の若さでこの世を去った。
数々の苦難にあいながらも、気丈に信仰を守り続けた人生は、後世の人々に大きな感銘を与えている。
「細川ガラシャ」ゆかりの深い長岡京で「婚礼の儀」が再現し、最後は地元酒造会社から祝福のビールが会場にも配られた。
その他の写真

<勝竜寺城公園>
住所:〒614-0836京都府長岡京市勝竜寺13番1号
電話:075(952)1146
交通:JR長岡京駅東口南500m  阪急電車・長岡天神駅徒歩20分
時間:9時~18時(11月~3月/17時まで)
休日:毎週火曜日

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