天孫神社(四宮神社)は、四宮大明神とも呼ばれて、通称・四宮さんという名で親しまれている。大津祭の起源は古く1596年(慶長年間)1615年とされている。
祭は10月第2日曜日、前日土曜日の宵宮と併せて13基の曳山が市内を巡行大津祭と称される。本祭は午前9時30分に天孫神社をスタートした。
中町通りに場所を移動し“からくり”を拝見した。所望(からくり)を演じる場所は25ヶ所もあり、午前中は11ヶ所で各町内の家の軒先に白と赤の「御幣」が目印として掲げられていた。曳山が目印の「御幣」に差し掛かると、山の責任者が「しょーもう」と声をかけ、五色布を結んだ指揮棒を突き上げた。それを合図にからくりが動きだした。
西行桜狸山は俗に狸山といい、治兵衛の狸面の伝承を持ち、祭の守護と先導、天気を守り毎年、先頭で巡行する。所望(からくり)は、花の中から仙人が現れ西行法師と問答する。
龍門滝山の所望は、黄河の上流にある龍門山の滝を鯉が躍り上がるところを見せる。見送りはゴブラン織で(重文)に指定されている。
西宮蛭子山は俗に「鯛釣山」と称し、えびすさんが鯛を釣上げることから商売繁盛を祈る。三番目は源氏山、俗に紫式部山。所望は石山寺の岩石の中から御所車や馬など次々と現れた。
石橋山(しゃっきょうざん)は険しい石の橋を渡ろうとした時、獅子が現れた、所望は唐獅子が牡丹の花と戯れたところ。
湯立山は孟宗山といっていたが寛文年間にいまの名に変わった。禰宜(ねぎ)がお祓いをして巫女が神楽を奏でることから、「おちゃんぽ山」の愛称がある。
猩々山(しょうじょうやま)能楽の「猩々」所望は大盃で酒を飲むところを現す。孔明祈水山は万延元年まで福聚山といった。所望はよくわからない?が、水がわき上った。
殺生石山、所望は和尚の法力で石が二つに割れ、女官の顔が狐に変わった。
郭巨山(かつきょやま)は俗に釜堀山、中国の二十四孝の一人郭巨が「子供は又得られる、母は再び得ることはできない」土中に埋めようと穴に掘ったら、黄金の釜がでてきたいう故事による。神宮皇后山は安産の山で所望は、皇后が岩に次々と弓で文字を書く所作。
月宮殿山は俗に言う「鶴亀山」とも呼び、謡曲の鶴亀にちなんだもので、頭上に鶴と亀の冠をつけた男女が皇帝の前で踊る。西王母山は、桃が二つに割れ童子が現れる。西王母が3000年一度、一個しか実らない貴重な桃を王に捧げ長寿を祝福したという故事で桃太郎、俗に桃山と呼ばれている。つづく・・・
祭は10月第2日曜日、前日土曜日の宵宮と併せて13基の曳山が市内を巡行大津祭と称される。本祭は午前9時30分に天孫神社をスタートした。
中町通りに場所を移動し“からくり”を拝見した。所望(からくり)を演じる場所は25ヶ所もあり、午前中は11ヶ所で各町内の家の軒先に白と赤の「御幣」が目印として掲げられていた。曳山が目印の「御幣」に差し掛かると、山の責任者が「しょーもう」と声をかけ、五色布を結んだ指揮棒を突き上げた。それを合図にからくりが動きだした。
西行桜狸山は俗に狸山といい、治兵衛の狸面の伝承を持ち、祭の守護と先導、天気を守り毎年、先頭で巡行する。所望(からくり)は、花の中から仙人が現れ西行法師と問答する。
龍門滝山の所望は、黄河の上流にある龍門山の滝を鯉が躍り上がるところを見せる。見送りはゴブラン織で(重文)に指定されている。
西宮蛭子山は俗に「鯛釣山」と称し、えびすさんが鯛を釣上げることから商売繁盛を祈る。三番目は源氏山、俗に紫式部山。所望は石山寺の岩石の中から御所車や馬など次々と現れた。
石橋山(しゃっきょうざん)は険しい石の橋を渡ろうとした時、獅子が現れた、所望は唐獅子が牡丹の花と戯れたところ。
湯立山は孟宗山といっていたが寛文年間にいまの名に変わった。禰宜(ねぎ)がお祓いをして巫女が神楽を奏でることから、「おちゃんぽ山」の愛称がある。
猩々山(しょうじょうやま)能楽の「猩々」所望は大盃で酒を飲むところを現す。孔明祈水山は万延元年まで福聚山といった。所望はよくわからない?が、水がわき上った。
殺生石山、所望は和尚の法力で石が二つに割れ、女官の顔が狐に変わった。
郭巨山(かつきょやま)は俗に釜堀山、中国の二十四孝の一人郭巨が「子供は又得られる、母は再び得ることはできない」土中に埋めようと穴に掘ったら、黄金の釜がでてきたいう故事による。神宮皇后山は安産の山で所望は、皇后が岩に次々と弓で文字を書く所作。
月宮殿山は俗に言う「鶴亀山」とも呼び、謡曲の鶴亀にちなんだもので、頭上に鶴と亀の冠をつけた男女が皇帝の前で踊る。西王母山は、桃が二つに割れ童子が現れる。西王母が3000年一度、一個しか実らない貴重な桃を王に捧げ長寿を祝福したという故事で桃太郎、俗に桃山と呼ばれている。つづく・・・
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