つづく・・・自分の愚かさを忘れないためブログを更新するが、医学用語では左手首を(左橈骨遠位端骨折)という。リハビリ室で1㎏のバーベルも重たく感じた。この先どうなるのか不安であった。病棟で貸してくれたリハビリ器具で暇を見ては行った。手先の指や感覚や握力はかなり低下している。過度の過重やブルンブルン手を振り回す振動は許されていない!過去の脳疾患の後遺症で右腕も不自由なため介護サービスをうけている。退院で在宅復帰を目指しているが週2回入浴もデイサービスを受けることになった。また週3日は家事援助を受けたのだった。
病棟の仲間が次々と退院していく中で、西京のMさんと右京のKさん、高槻のTさん亀岡のMさんとは知り合いになった。特に演歌塾主宰のMさんは輝かしい音楽家の道だった。Mさんは大正15年生まれの85歳で生まれついた時からの音楽好き、11歳のとき村の小学校に新調されたピアノと出会い、教師のレッスンを受けた。
戦争の影響を受け東京陸軍航空学校へ進み復員した。早速潜んでいた音楽活動を再開、青空楽団を結成と共に各地で流行をはじめたのど自慢大会出場した。
昭和22年NHK亀岡地区の大会で優勝し、東京上野音大・清水綾子先生に声楽を師事、昭和27年春のHNKのど自慢全国コンクール京都代表になった。同年のコロンビア全国コンクール京都大会、続く昭和28年大会にも優勝した。
その後、HNK京都放送管弦楽団の指揮者、浅田憲司先生からピアノ・アコーディオンの演奏技術および作曲理論の指導を受けたという。Mさんは昭和30年時代、作詞・作曲に興味を持ち、勤務した学研HSCやフランスベット販売等の社歌、学園歌や地元の小学校々歌、婦人会々歌、保育園々歌、子供会々歌等など数10曲を作曲したという。
昭和59年には亀岡カラオケ連合会結成、自宅では「ふるさと演歌塾」の教室を開き28年、亀岡市老人連合会カラオケサークルの指導も20年、現在に至っている。
『山のふるさと』 作詞 白鳥園枝 作曲 むらさき幸 編曲 伊藤雪彦
(一)山のふもとの 炭焼き小屋じゃ
白い煙が なびくころ
ビルの谷間で 故郷(こきょう)を偲ぶ
逢いたいなあ
村に残して きたあの娘
なつかしいなあふるさとが ふるさとが
(二)山で樹を伐りゃ 山鳥啼いて
雲の切れ間を 仰いだ日
無駄にゃしないぞ 汗水流し
夕暮れに
たきぎ運んだ あのころを
思い出すなあふるさとを ふるさとを
(三)山の畠で 麦ふみながら
若い心は 燃えていた
夢にえがいた 東京暮らし
淋しいなあ
鳥も啼かない 路地裏で
帰りたいなあふるさとへ ふるさとへ
昭和25年、岡本敦郎の「白い花のさく頃」や叙情的な「リラの花咲く頃」は覚えている方も多いだろう。MさんはHNKのど自慢全国コンクールで唄った伊藤久男の“夕月の歌”も作詞は寺尾智沙、作曲は田村しげるで京都府宮津出身だと教えてくださった。
またMさんの自宅の近郊に石田梅岩の史跡があるという。
「石門心学」という士農工商の封建社会にあって、広く庶民に「あきない」の基本を説き、京都商道の開祖ともいわれている人だ。知らなかった・・・亀岡を訪ねてみよう!!!
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