2009年6月25日木曜日

京・奥嵯峨 祇王寺

悲恋のヒロイン祇王が隠棲した祇王寺の門
道の左端入口に石柱が立っている
梅雨の晴れ間を見て平家物語ゆかりの苔庭・祇王寺を訪ねた。
祇王寺は、二尊院から奥嵯峨野方面へ向う。道の左端に石柱が立っていて滝口寺、壇林寺、祇王寺の名を刻んでいて目的、祇王寺には約2分余で到着する。そこは小倉山の麓で美しい楓と竹林に包まれたところ、表門は普段閉じられている。苔庭の緑が心を癒してくれる脇の門から入るとこの表門をくぐり境内へ
祇王寺は、大覚寺塔頭で真言宗の尼寺で、法然上人の門弟良鎮(りょうちん)が創建、往生院の跡と伝えられる。往生院は江戸末期まで存在していて、その後荒廃、ささやかな尼寺として残り、のちに祇王寺と呼ばれるようになった。
平家物語の巻頭に、祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅雙樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し・・・・・・平家全盛の頃、いわゆる平清盛公を中心とした2人の女性の哀れな物語である。祇王寺は小さな本堂、仏間には本尊の他、祇王、祇女、刀自、仏御前の4尼と清盛の木像が祀られている花一輪、百合の花
その頃、都に聞えた白拍子の上手に祇王・妓女(ぎおう・ぎじょ)と言う姉妹があった。近江の野洲江辺庄の生まれ。母刀自(とじ)と共に京都へ出て白拍子となり、のちに姉の祇王が清盛の寵愛(ちょうあい)を得て、妹祇女も有名、毎月百石百貫の手当てもあり、安穏に暮らしていた。ある時清盛が祇王に、何か欲しいものがあるかと尋ねると、祇王は、自分の生国は水の便が悪く毎年旱害を受け、一庄三村は飢餓に苦しんでいるから願わくば、水利を得させて頂きたいと願った。清盛は早速、野洲川から三里の溝を掘らせ水を通した。里人はこれを徳とし溝を名づけて、祇王井川と呼び今に至っている。庭の奥に本堂が望める。。
本堂の控えの間、吉野窓、影が虹の色に現われるというところがここにきて加賀の国の者で、仏御前と呼ばれる新たな白拍子の上手が現われ、西八条の清盛の館に行き、舞をお目にかけたいと申し出た。清盛は
神とも言え、仏とも言え、祇王があらんずる所へは叶うまじきぞ、とうとうまかり出でよ」・・と門前払い
このまま門前払いにしておけば、この祇王寺はなかったが、祇王本人がやさしく取りなし呼び入れ、今様を歌わせたばかりに、清盛は仏御前の舞や歌のうまさに心を奪われたちまち仏御前に心を移した。昨日までの
寵愛は何処へやら、祇王は直ちに館を追い出される派目に・・せめてもの忘れ形見にと障子に 本堂の正面から庭を眺める
庭一面の苔、種類は12もあるとか!萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草
        何れか秋に あはで果つべき
 と書き残して去って行く。
あくる春になって清盛はいやしくも仏御前が退屈しているから舞を舞って仏をなぐさめよと使者をよこすと、祇王はもとより行く気がなかったが母の哀願に抗しかね、西八条の館へ出向き
仏もむかしは凡夫なり われらも遂には仏なり 
  いずれも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ
 と歌い舞った。
これには並み居る諸臣も、涙を絞ったと言う。祇王は
かくて都にあるならば、又うき目を見むづらん、今は都を外に出でん」とて、祇王21歳祇女19歳刀自45歳の三人、髪を剃って尼となり、嵯峨の山里、この祇王寺の地に世を捨て、仏門に入る。右が平清盛の供養塔、左が祇王、祇女、刀自の墓。
母子三人念仏している所へ竹の編戸を、ほとほとたたく音が・・昼間でも人の通わないこの山里、出てみると、思いもかけぬ仏御前が剃髪の姿で立っていた。
祇王の不幸を思うにつれ、何れか秋に あわで果つべき、と書き残された歌を無常に感じ、今朝、清盛公に内緒でこっそり館を出てきたと言う。
仏御前17歳、浄土を願わんと深く思い込みその後は四人一緒に籠って朝夕の仏前に香華を供えて、みな往生の本懐を遂げた
。』祇王寺説明文参照 
尚、仏御前のお墓がここにないのは、その後出生地の北陸へ帰り余生を過ごし極楽往生したと言う。奥嵯峨・祇王寺は、哀れな白拍子四人が隠棲した悲話を感じた!新緑の季節、静かに座りながら苔庭を見つめていると、緑の絨毯が眼に眩しかった。
住所: 京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町32
電話番号:075-861-3574
拝観時間:300円 障害者100円
拝観料:9:00~16:30
交通: 市バス・京都バス「嵯峨釈迦堂前」下車徒歩約15分
    JR京都駅から嵯峨野線「嵯峨嵐山」下車徒歩約40分

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