門跡寺院・嵯峨御所としても知られる大覚寺は、嵯峨天皇と弘法大師が、国家の安泰と国民の幸福を祈願された心を受け継ぎ、特にその祈願のために、嵯峨天皇みずから般若心経の写経をなさったことから、現在も般若心経の根本道場として多くの人々に親しまれている。
御本尊は五大明王、災難や迷いの心を剣となわで断ち切り、幸せに導くようお守りをする。嵯峨天皇は、都より離れた葛野の地をこよなく愛され、嵯峨院を建立された。これが現在の大覚寺の前身で嵯峨離宮という。
また弘法大師と親交を深められ飢饉に際して、天皇は般若心経を写経、皇后は薬師三尊像を浄写、弘法大師は嵯峨院持仏堂の五覚院で五大明王に祈願した。
このとき天皇がお書きになられた般若心経は、現在も大覚寺心経殿に伝えられている。
嵯峨天皇の離宮としてつくられ天皇退位後仙洞嵯峨院となり貞観18年(876)大覚寺と命名される。
後嵯峨上皇・亀山天皇も退位後はここに入寺・後宇多法皇はここで院政をとり行ったので嵯峨御所ともいわれる。歴代の法親王なども入寺。
格式の高い門跡寺院として今日に至っている。
戦国時代、応仁の乱によりほとんどの堂を焼失、衰退したが、江戸時代初期にはほぼ寺観が整い大正年間には心経殿が再建、心経前殿も造られた。大正11年(1922)には、大沢池附名古曽滝跡が国指定名勝として、昭和13年(1938)には、大覚寺境内全域が大覚寺御所跡として国指定史跡に指定されている。
また、嵯峨天皇が嵯峨離宮庭内で菊を瓶に生けられたことに始まる「いけばな嵯峨御流」は、伝統ある歴史と格式を持ちながら、現代感覚に即した発展を遂げ、年々隆盛の一途をたどっている。「近畿三十六不動尊霊場」の第十三番札所として、全国各地から参拝者が訪れている。
正しくは「旧嵯峨御所大覚寺門跡」と言って真言宗大覚寺派本山である。
御本尊は五大明王、災難や迷いの心を剣となわで断ち切り、幸せに導くようお守りをする。嵯峨天皇は、都より離れた葛野の地をこよなく愛され、嵯峨院を建立された。これが現在の大覚寺の前身で嵯峨離宮という。
また弘法大師と親交を深められ飢饉に際して、天皇は般若心経を写経、皇后は薬師三尊像を浄写、弘法大師は嵯峨院持仏堂の五覚院で五大明王に祈願した。
このとき天皇がお書きになられた般若心経は、現在も大覚寺心経殿に伝えられている。
嵯峨天皇の離宮としてつくられ天皇退位後仙洞嵯峨院となり貞観18年(876)大覚寺と命名される。
後嵯峨上皇・亀山天皇も退位後はここに入寺・後宇多法皇はここで院政をとり行ったので嵯峨御所ともいわれる。歴代の法親王なども入寺。
格式の高い門跡寺院として今日に至っている。
戦国時代、応仁の乱によりほとんどの堂を焼失、衰退したが、江戸時代初期にはほぼ寺観が整い大正年間には心経殿が再建、心経前殿も造られた。大正11年(1922)には、大沢池附名古曽滝跡が国指定名勝として、昭和13年(1938)には、大覚寺境内全域が大覚寺御所跡として国指定史跡に指定されている。
また、嵯峨天皇が嵯峨離宮庭内で菊を瓶に生けられたことに始まる「いけばな嵯峨御流」は、伝統ある歴史と格式を持ちながら、現代感覚に即した発展を遂げ、年々隆盛の一途をたどっている。「近畿三十六不動尊霊場」の第十三番札所として、全国各地から参拝者が訪れている。
正しくは「旧嵯峨御所大覚寺門跡」と言って真言宗大覚寺派本山である。
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