八坂神社・祇園祭の久世駒形稚児はこの神社の氏子から選ばれる。
久世駒形稚児は胸に木彫りの駒形(馬の首)をかけて、行列に供奉されるので、駒形稚児という名で呼ばれている。
祇園祭の神幸祭・還幸祭で、馬に乗って、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が鎮まる中御座神輿(なかござみこし)の先導を務めるが、この際に胸にかける木彫りの馬の首(駒形)は國中社の神体を模したものである。
駒形は「素戔鳴尊」の荒御魂を祀る綾戸国中神社の神体とされており、八坂神社の和御魂と、上久世の荒御魂が揃ってはじめて、神霊の全ての力が揃う形となって氏子区域を巡回され、夏の祇園祭には稚児が駒形の御神体を胸に奉持して(駒形稚児)白馬にのって、八坂神社に至る。ここから祇園祭が始まる。
「旧西国街道が西行から南転する地点のほぼ西方に鎮座する。祭神は大綾津姫命・大直日命。
江戸時代まではもっぱら綾戸社の称でよぱれていたが、近代になって現社名を名乗る。合祀する国中社の祭神は素盞嗚命。綾戸社は、かつては大井川(桂川)七瀬の祓神として大井社と称し、天暦9年(955)綾戸社に改称されたと伝える。詳細は不明だが、明治3年(1870)の上久世村内社寺数取調帳(井上家文書)には「大井社 国中社」とあり、まだ大井社とよぱれることもあったと思われる。ちなみに「延喜式」神名帳の乙訓郡には「大井神社」がみえるが、綾戸社(大井社)との関係は不詳。同神名帳にみえる同郡「茨田神社」を綾戸社に比定する説もある。上久世荘公文沙弥道法が領家東寺に進上した暦応3年(1340)11月作成の荘絵図(教王護国寺文書)に「綾律(津)大明神」とみえる。また応永15年(1408)12月7日の上久世荘年貢算用状(東寺百合文書)の除分内訳に「壱斗 綾戸宮御粽」とみえ、綾戸社が上久世荘の鎮守としての位置を占めていたことがうかがえる。
当地上久世の産土神で、祇園祭の神幸には上久世の駒形稚児が参加する。紙垂をつけた木製の駒頭を胸にした稚児で、綾戸国中神社の神体に模したといい、八坂神社の南大門を騎乗のままくぐって境内に入り、拝殿まで進むという破格の扱いをうけている。
「山州名跡志」は「綾戸社 在二蔵王堂南民村中一社南向所レ祭有二説々一 例祭 九月十九日」とし、駒形稚児について「毎歳六月祇園会ニ、彼ノ神輿四条ノ旅所ニ遷幸ノ時、冠装束ノ男子、木作ノ駒頭ヲ首二繋テ、馬ニ乗リ神輿ノ前ヲ行アリ。是便当所ヨリ勤ム。其駒ノ頭、此社ノ社司ノ家ニ置也。俗御駒ト称シテ信敬シ、其家ニ参詣シ、祈願ス、由来不詳」と記している。また「都名所図会」は綾戸社について牛頭天王を祀るとし、「例祭は四月十九日也、六月祇園会祭礼、馬の頭を首にかけて児の騎馬にて当社より毎歳出るなり」とする。
合祀されている国中社は「延喜式」神名帳に乙訓郡の一座として「国中神社」とみえる社に比定され、「山城志」に「在所未詳」とあるように、近世にはその所在は不明になっていたものと思われる」 -『京都・山城 寺院神社大事典』-参照
綾戸国中神社境内は桂川の西岸、南区久世橋の西方にあり、南は道路、西側は新幹線の高架になっている。
久世駒形稚児は胸に木彫りの駒形(馬の首)をかけて、行列に供奉されるので、駒形稚児という名で呼ばれている。
祇園祭の神幸祭・還幸祭で、馬に乗って、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が鎮まる中御座神輿(なかござみこし)の先導を務めるが、この際に胸にかける木彫りの馬の首(駒形)は國中社の神体を模したものである。
駒形は「素戔鳴尊」の荒御魂を祀る綾戸国中神社の神体とされており、八坂神社の和御魂と、上久世の荒御魂が揃ってはじめて、神霊の全ての力が揃う形となって氏子区域を巡回され、夏の祇園祭には稚児が駒形の御神体を胸に奉持して(駒形稚児)白馬にのって、八坂神社に至る。ここから祇園祭が始まる。
「旧西国街道が西行から南転する地点のほぼ西方に鎮座する。祭神は大綾津姫命・大直日命。
江戸時代まではもっぱら綾戸社の称でよぱれていたが、近代になって現社名を名乗る。合祀する国中社の祭神は素盞嗚命。綾戸社は、かつては大井川(桂川)七瀬の祓神として大井社と称し、天暦9年(955)綾戸社に改称されたと伝える。詳細は不明だが、明治3年(1870)の上久世村内社寺数取調帳(井上家文書)には「大井社 国中社」とあり、まだ大井社とよぱれることもあったと思われる。ちなみに「延喜式」神名帳の乙訓郡には「大井神社」がみえるが、綾戸社(大井社)との関係は不詳。同神名帳にみえる同郡「茨田神社」を綾戸社に比定する説もある。上久世荘公文沙弥道法が領家東寺に進上した暦応3年(1340)11月作成の荘絵図(教王護国寺文書)に「綾律(津)大明神」とみえる。また応永15年(1408)12月7日の上久世荘年貢算用状(東寺百合文書)の除分内訳に「壱斗 綾戸宮御粽」とみえ、綾戸社が上久世荘の鎮守としての位置を占めていたことがうかがえる。
当地上久世の産土神で、祇園祭の神幸には上久世の駒形稚児が参加する。紙垂をつけた木製の駒頭を胸にした稚児で、綾戸国中神社の神体に模したといい、八坂神社の南大門を騎乗のままくぐって境内に入り、拝殿まで進むという破格の扱いをうけている。
「山州名跡志」は「綾戸社 在二蔵王堂南民村中一社南向所レ祭有二説々一 例祭 九月十九日」とし、駒形稚児について「毎歳六月祇園会ニ、彼ノ神輿四条ノ旅所ニ遷幸ノ時、冠装束ノ男子、木作ノ駒頭ヲ首二繋テ、馬ニ乗リ神輿ノ前ヲ行アリ。是便当所ヨリ勤ム。其駒ノ頭、此社ノ社司ノ家ニ置也。俗御駒ト称シテ信敬シ、其家ニ参詣シ、祈願ス、由来不詳」と記している。また「都名所図会」は綾戸社について牛頭天王を祀るとし、「例祭は四月十九日也、六月祇園会祭礼、馬の頭を首にかけて児の騎馬にて当社より毎歳出るなり」とする。
合祀されている国中社は「延喜式」神名帳に乙訓郡の一座として「国中神社」とみえる社に比定され、「山城志」に「在所未詳」とあるように、近世にはその所在は不明になっていたものと思われる」 -『京都・山城 寺院神社大事典』-参照
綾戸国中神社境内は桂川の西岸、南区久世橋の西方にあり、南は道路、西側は新幹線の高架になっている。
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