2011年8月13日土曜日

世界遺産 平泉・中尊寺金色堂

この金色堂写真パネルは10年前のものです岩手県平泉の中尊寺金色堂は平安時代後期の建立の仏堂である。850(嘉祥3)年、高僧・慈覚大師円仁(じかくだいし えんにん)により開基した天台宗の寺院である。建立当時は関山弘台寿院と号したが859 (貞観元) 年に中尊寺と改めた。
江刺郡の豊田館から平泉に移った奥州藤原氏初代藤原清衡が1124(天治元)年に建立したもので、京都宇治・平等院鳳凰堂と共に平安時代の浄土教建築の代表例であり、戦いで亡くなった人々の霊をなぐさめるため、仏国土を建設するため中尊寺一山の造営に着手した。

本堂は明治42年の再建で堂内には約1200年灯り続ける「不滅の法燈」が、総本山の比叡山延暦寺より分火され今も大切に護持している。 金色堂覆堂(京都新聞から)
金色堂(覆堂)前で親友が撮ってくれた金色堂は、中尊寺山内のやや西寄りに東を正面として建っている。正面、側面共に柱間が3間で、平面の1辺が5.5メートルの小型の仏堂であった。堂は、昭和40年建設の鉄筋コンクリート造の覆堂(おおいどう)内にあり、ガラスケースに納められて外気と遮断されていた。 小高い丘の上にある(京都新聞から)
金色堂内部は仏像が11躯遠い記憶なのだが昭和30年ごろ、小学校の遠足で来たことがあった。でも体調が悪く参加したけれどバスから一歩も出られなかった在りし日の想い出がある。

          月日は流れて障害者になって古さと帰省折、その事をクラスメートの親友に告げるとお易い御用とばかり、実行に移した。なな、なっんと平成14年48年ぶりに実現しのであり感謝・感謝・感謝。
まず、お勧めは広大な敷地に平安時代の建物が再現されている“えさし藤原の郷”を見学、大河ドラマのロケ地としても使用されている。 次いで金色堂、極楽浄土とされる毛越寺の庭園。親友の計らいでえさし藤原の郷、中尊寺金色堂等々ドライブしたがまたいつの日か行って観たい。
見所があるのでレンタカーや車を奨めしたい今年3月11日岩手、宮城、福島の3県を中心とした沿岸部に未曾有の大災害をもたらした。震災で亡くなった数は1万5689人、行方不明者の数は6県で4744人、津波に巻き込まれて非業の死をとげた人々の御霊がある、多くの人々の無念の思いを和らげ、その魂を安らかに眠らん・・・そんな中、東北初の平泉・中尊寺金色堂が世界文化遺産の登録になった。
「金色堂 上下四壁は皆金色なり」の言葉を始め、収蔵する品々は文化財の宝庫で中尊寺創建当初の唯一の遺構は、復興を目指す被災地の人々の更なる励みになるだろう。
    夏草や 兵どもの 夢のあと・・・松尾芭蕉

2011年8月11日木曜日

洛西S病院、その4 洛西NT一帯ガス停止

退院前日の6月20日月曜日、西京区の国道9号線沓掛口バス停付近で、午前5時前、水道管破損事故が発生した。洛西ニュータウン一帯で水道・都市ガスの供給が止まったと報道のニュースが流れた!国道沓掛口バス停はよく利用する
午前5時前、水道管破損事故が発生したそんな大ニュースとは露知らず、明日は一ヶ月ぶりに自宅へ帰れることでワクワクしていた。しかし、病棟の患者が手術で朝から絶飲食で点滴や入浴もすませていたが院内もガスや水道の供給停止で手術が取り止めになってしまった。院内の夕食もナースから少し遅れると予告があった。
3階病棟窓から国道9号線外の車の往来みるが一見、普段と変わりなく流れている・・・だが病院のある南側歩道にはガス管復旧工事で人混みがあった。
一転、NHKの845ローカルニュースや21時の全国ニュースが放送された。
それによると洛西ニュータウンなど約1万5千世帯、その他、長岡京市や向日市にも及ぶ甚大な被害のガスの復旧は2,3日では終わらないという!地面はガス管修繕作業見られる
ヤサカバスも走行してる沓掛口子供にもケータイ電話で知らせたが案の定、炊事時、どうしてガスが止まったのか解らない常態だった。RCV京都TVは字幕放送で「カセット式ガスコンロの貸出し」ついての事を流していた。この事を耳にした私は子どもに伝えた。深夜ガスコンロは届けてくれたという。
21日退院したが、水道はでるもののガスの供給もない、暑く汗を拭う日々、5日(4日)間もガスの供給もなく、都市生活の維持に必要不可欠な、ライフラインはズタズタでありお茶も沸かせないし風呂も入れない・・・ 沓掛口バス停は以前イスがあったが、これを境に無くなった!
京都市は、西京ガス停止影響世帯に水道管に亀裂・破損し近くのガス管に穴を開けたのが原因だったとして謝罪文を配った。
今まで過去にあっただろうか“ガス管から水”が漏れるという事が・・全く前代未聞である。
22日、水曜日竹の里町のあっちらこちらで復旧作業工事が徹夜で掘り起こされていた。
洛西福祉事務所へ行ったが出口で朗報聞いた。大阪ガスの職員が京都エミナースで「カセット式ガスコンロ」の貸出しをしている小耳にした!
エミナースでは職員が総動員してカセットこんろ用の貸し出しをしていた。もう既に替わりのボンベを2,4本注文する人もおった! 洛西エコステションに設けたガスボンベ回収窓口
ガス会社が貸し出した「カセット式ガスコンロ」私は所定の用紙に書き届けてくれるようにお願いした。何せ私は右上肢麻痺や退院2日目のためコンロの荷重は嵩高く自宅には持って帰れない!
だが水曜日、家事援助の日でヘルパーさんに炊事を頼んだ。そのためには「カセット式ガスコンロ」が必要だ。ヘルパーさんにコンロを取りに行ってもらった。それからの復旧工事はまだ3日も要した。
東日本大震災や原発に比べれば洛西ニュータウンなどは極少な事、されど電気・ガス・水道は必要不可欠な命綱、遇ってならない事である。

2011年8月9日火曜日

洛西S病院で、その3「街の小さな音楽家」

つづく・・・自分の愚かさを忘れないためブログを更新するが、医学用語では左手首を(左橈骨遠位端骨折)という。リハビリ室で1㎏のバーベルも重たく感じた。この先どうなるのか不安であった。病棟で貸してくれたリハビリ器具で暇を見ては行った。手先の指や感覚や握力はかなり低下している。過度の過重やブルンブルン手を振り回す振動は許されていない!過去の脳疾患の後遺症で右腕も不自由なため介護サービスをうけている。退院で在宅復帰を目指しているが週2回入浴もデイサービスを受けることになった。また週3日は家事援助を受けたのだった。貰った逢いたかったぜ、ナツメツ二巻
3階談話室にてMさんカラオケ聞く病棟の仲間が次々と退院していく中で、西京のMさんと右京のKさん、高槻のTさん亀岡のMさんとは知り合いになった。特に演歌塾主宰のMさんは輝かしい音楽家の道だった。Mさんは大正15年生まれの85歳で生まれついた時からの音楽好き、11歳のとき村の小学校に新調されたピアノと出会い、教師のレッスンを受けた。
戦争の影響を受け東京陸軍航空学校へ進み復員した。早速潜んでいた音楽活動を再開、青空楽団を結成と共に各地で流行をはじめたのど自慢大会出場した。
街の音楽家にサインをいただいた昭和22年NHK亀岡地区の大会で優勝し、東京上野音大・清水綾子先生に声楽を師事、昭和27年春のHNKのど自慢全国コンクール京都代表になった。同年のコロンビア全国コンクール京都大会、続く昭和28年大会にも優勝した。
その後、HNK京都放送管弦楽団の指揮者、浅田憲司先生からピアノ・アコーディオンの演奏技術および作曲理論の指導を受けたという。Mさんは昭和30年時代、作詞・作曲に興味を持ち、勤務した学研HSCやフランスベット販売等の社歌、学園歌や地元の小学校々歌、婦人会々歌、保育園々歌、子供会々歌等など数10曲を作曲したという。カラオケサークルの指導も20年、前方・車イスは障害の見舞い客
昭和59年には亀岡カラオケ連合会結成、自宅では「ふるさと演歌塾」の教室を開き28年、亀岡市老人連合会カラオケサークルの指導も20年、現在に至っている。
『山のふるさと』 作詞 白鳥園枝 作曲 むらさき幸 編曲 伊藤雪彦
(一)山のふもとの 炭焼き小屋じゃ  
   白い煙が   なびくころ
   ビルの谷間で 故郷(こきょう)を偲ぶ  
   逢いたいなあ
   村に残して  きたあの娘
   なつかしいなあふるさとが ふるさとが

(二)山で樹を伐りゃ  山鳥啼いて 
   雲の切れ間を   仰いだ日
   無駄にゃしないぞ 汗水流し 
   夕暮れに
   たきぎ運んだ あのころを
   思い出すなあふるさとを ふるさとを

(三)山の畠で   麦ふみながら 
   若い心は   燃えていた
   夢にえがいた 東京暮らし 
   淋しいなあ
   鳥も啼かない 路地裏で
   帰りたいなあふるさとへ ふるさとへ
昭和25年、岡本敦郎の「白い花のさく頃」や叙情的な「リラの花咲く頃」は覚えている方も多いだろう。MさんはHNKのど自慢全国コンクールで唄った伊藤久男の“夕月の歌”も作詞は寺尾智沙、作曲は田村しげるで京都府宮津出身だと教えてくださった。 西京のMさんもカラオケ大好き人間
またMさんの自宅の近郊に石田梅岩の史跡があるという。
「石門心学」という士農工商の封建社会にあって、広く庶民に「あきない」の基本を説き、京都商道の開祖ともいわれている人だ。知らなかった・・・亀岡を訪ねてみよう!!!

2011年8月8日月曜日

洛西S病院で、その2

つづく・・・暴風の嵐のように激しい痛みが嘘のように治まった。だが2,3時間に行くトイレ、尿瓶も用意したがベッドで用を足すことが出来ず備え付けのナースコールで呼んだ。ナースは手慣れたものでベッドから車イス・点滴棒などまとめトイレに連れて行く。Yさんが病棟で写してくれた
いつもお世話になっている物療療法のMさんが朝8時過ぎお見舞いに病棟を訪れる。またkさん、Iさんも来る。皆びっくりの様子で・・・山科の勧修寺で木の根が邪魔して転倒して骨折したと伝えた。
左右の手が不自由なためナースが朝昼夕と三度の食事を介護してくれた。美しいナースが食べさせてくれて好いだろう!というが、そうでもない。
入院3日後、OT療法士が握りの太いフォークとスープンを用意してくれた。ギブスの先ちょから左指が出ていて、これを上手に使えば一人で食事も出来る。だが、牛乳のストローを取ることは不可能でパンに塗るジャム等もできない!柄が大きいフォークとスープン
ギブス姿も痛々しい4日目で朝晩の抗生剤点滴は終了した。採血は朝一番、回診は午前中でナースたちとも冗談を言う仲になった早いもので手術してから一週間たった、三角巾のギブスもとれ抜糸(16ヶ所)であったが半分は明日という。
6月7日、回診で外40度、内70度で曲がり程度は順調だという。この頃になると退院という話がチラチラする。次の日、久々入浴した。
ところで私は障害者のパソコンクラブを主宰していて9日は北区のオオモリサンバレイに予約していたが、骨折で参加不能になり、病棟から仲間に電話連絡して了解をとった。 リハビリ
やっとギブスが取れた相変わらず院内生活は退屈だが、屋外を見たらツバメが子育て中で餌を採って雛に与えている。ところが二羽の親ツバメは巣の周りを幾重も飛んでいる!
おや、ヘビが巣の中に入り雛を丸呑みしている。と思ったら2,3mのヘビは落下した!ツバメは何にもすることが出来ずに可哀相である。
それから後、職員は落下したヘビや呑まれた雛は葬ったといった。残った4匹の雛は元気に南へ飛び立った。
病棟のMさんとKさんは土日、競馬が趣味、若いY君は交通事故で入院、Tさんは高槻市から亀岡のMさんは演歌塾の先生というが人間年を重ねたら、「感動・興味・工夫・健康・こだわり」つまり、“かきくけこ”を忘れたらダメだという。またSさんは11日退院したが、人の一生は大切で、「人生カード」のようなもの、トランプのように一枚、一枚使って行かなくてはならないといった。二人とも中々良いことを言う・・・
いよいよ、17日退院後の在宅復帰で介護支援連携指導Hさんからデイサービス(頭や身体が洗えない)や家事援助・作業療法士などが集まり退院前の協議が行われた。またリハビリOTは病院送迎バスの乗降を重ねた、次の日は病院の向かいのデイサービスまで歩く。だが洛西ニュータウンで水道管工事でガス管に水が入り思わぬ事態が発生したとNHKニュースが言っている!
21日、午後めでたく退院を迎えた。
病棟の仲間もお世話になった。ありがとう!
3階のナースステーションからも7,8人の人たちがエレベーター前で見送りしてくれた。
カラガラの声は主任、ノリピー似のTナース。オペのとき、車イスを押してくれたUさん。自筆が書けず署名してくれたNさんその後Kさん。語尾がハッキリしてるIさん、大変ありがとうございました。
二回もお見舞いに来てくれたYさんありがとう、T夫妻さん、ありがとう。Nさん、思いもよらずお見舞いありがとう。TさんとKさんには多額のお見舞い本当にありがとうございました。これからは転ばないよう心掛けよう!
まず感謝・感謝・感謝・・・つづく・・・

2011年8月7日日曜日

洛西S病院で、その1

日々は遠い過去へと過ぎ去って行くが、今一度病院内の生活を忘れないために記録した。 山科・勧修寺から3時間余、病院に着き骨折が判明し直ちに入院となった!
3階の108号病棟は懐かしい入院の検査・手続きをする一方、署名すら出来ず担当看護師にお願いすることとなった。入院部屋は3階の108号病棟・9人部屋である。
この病院は外来で現在も通院しているが、14年前も脳疾患で千代原口と洛西に長期入院して3階の病棟のベッドも同じだった。
                        19時ごろ病棟のベットで空腹に気が付き、院内食事は規定の数だけでダメで、コンビニでもと思ったが外は雨降り、お茶を飲んで空腹を耐えることになった。
骨折した部分にチタン製の金具を入れ固定する手術説明書入院に必要な荷物も何にもない・・・院内でパジャマも借りた。24日朝6時より絶飲食の札、栄養・水分補給などの目的のため点滴を持続する。
手術当日になり担当看護師や主治医が手術承諾書ことで病棟にくる。局所麻酔は本人が自覚するから良いが、全身麻酔は万一何が起こっても承諾書に同意するようにという家族のサインが必要だった。午後になりやっと、息子と電話連絡がとれたと看護師いう。まったくおちおち怪我や事故には一人暮らしにはなれない!

昼前から手術着になっていると手術室から別の看護師が術前訪問して手術入室と麻酔導入から終了まで詳しく説明した。病名は左橈骨遠位端骨折のための入院診療計画書
13時半になっても手術の連絡がなくイライラして待っていたが15時頃の予定だと告げられた。病棟の看護師が車イスを持って来て同階の手術前室に入った。前室では手術専用に履き替え、ストレッチャーに乗せられ氏名を言って手術部位を確認した。手術室では再度ベッドに仰向けになり血圧計や心電図など身体の酸素量を知るために指先にクリップを挟む、手術室のスタッフは皆坦々と仕事していた。全身麻酔はした事があるがと聞くが、14年前の千代原口S病院で頭蓋骨開頭手術受けた事があるが意識不明で全く記憶に無いと告げた!
点滴から麻酔薬が注入し、針を刺しているところがチクチク痛くなるというが問題は無く、1,2・・・で麻酔薬が効きだしたzzzz・・・。
手術室の看護師が「終わりましたよ・・・」目を開けてください。口を開けて、舌を出してくださいと言う。手術が終わり手術室で少し朦朧となったが麻酔から醒めた。
病棟では看護師が酸素吸入や体温・血圧測定など抗生剤点滴など慌しくしていた。ギブスを巻かれた左手首は痛々しいが麻酔で耐え難い苦痛を取り除くことができ何の異状も無く手術を受けることができた。17時前のことである。だが徐々に麻酔薬が切れだしズキンズキンと激しい疼痛がする。
痛め止めは胃腸を悪くするのでとにかくガマンした。ウンウン唸る疼痛、痛い、痛い!!看護師さんでも誰でもいい、側に看病する人がおったら・・・だけど一人、いない。。。一先ず座薬を頼んだ!
OT室のK作業療法士から左手の運動が指図された3時間が過ぎなんとか痛さは治まった、あの激しい痛さは何だったのだろう?
20時やっとベットの背凭れを起こし夕食を食べたが両手が使えず、看護師さんが食べさせてくれる。またトイレも尿瓶では用をなさず、看護師さんと一緒に車イスでトイレに行き下着を脱がされ用を足したが点滴があり、その回数は2時間起きであった。
(このブログは5月24日手術の模様を書いたものである)
明日からリハビリが始まるが、、、、つづく・・・

2011年8月6日土曜日

勧修寺 (かじゅうじ)

つづく・・・勧修寺は、真言宗山階(やましな)派の大本山で、山号を亀甲山(きっこうざん)と称し、平安中期の900(昌泰3)年に醍醐天皇が母(藤原胤子)を弔うために、胤子の母の実家である、宮道弥益(みやじのいやます)の邸宅を寺に改めたと伝えている。宸殿<明正殿>
勧修寺は真言宗山階派大本山寺号は天皇の祖父にあたる藤原高藤(たかふじ)の謚(し)号をとって勧修寺と名付けられた。のちに醍醐天皇の勅願寺となり皇室との関係が深く、代々法親王が入寺する門跡寺院として品格も維持していたが1470(文明2)年、兵火で伽藍を焼失した。その後、豊臣秀吉の伏見桃山城築城の際、境内が縮小されたものの徳川家の寄進で現在の規模となり、江戸アングルを変えた宸殿時代に徳川家の皇室の援助により再興された。宸殿<明正殿>の扁額
中門を入ると芝生越に右手に堂々とした宸殿が見える。宸殿は江戸時代初期の御所の建物で1697(元禄10)年に明正天皇の御殿を下賜されたものだった。書院(重要)と震殿は明正天皇より旧殿を賜って造られた
江戸時代、臥龍の老梅は御所から移植されたという本堂は、霊元天皇より仮内侍所を、書院(重要)と震殿は明正天皇より旧殿を賜って造られたいわれ、本尊・千手観音像を祀っている。偃柏槙(ハイビシャクシン)の間から顔をだす水戸光圀から寄進の勧修寺型燈籠
樹齢750年と伝える偃柏槙(ハイビシャクシン)が地を這うように枝を広げている書院の南の平庭には、一面に樹齢750年と伝えられる偃柏槙(ハイビシャクシン)が地を這うように枝を広げており、その中に雪見型をアレンジして創作されたユニークな形の燈籠は勧修寺型と燈籠といわれ、大きな傘を持つ燈籠は水戸黄門で知られる水戸光圀の寄進である。その横の臥龍の老梅は、江戸時代に京都御所から移植されたものという。氷室池の側に建つ観音堂
観音堂の観音さままた1935(昭和10)年には観音堂も建ち、お堂の屋根の上には鳳凰があり、中には観音像がおる。四季の自然美、醍醐の山々が望める
京都庭園中最高の巨木で千年杉という醍醐天皇の生母・藤原胤子の両親である「藤原高藤と宮道列子」は、この地で運命的な出会いをして恋に落ちたという。高藤は南山階で列子に(弥益の娘)一目ぼれし、一夜の契りを結び宿した子は後に宇多天皇の女御となったという逸話は古来、長く愛されてきた『今昔物語集』の一つである。(完)
<勧修寺>
住   所:京都市山科区勧修寺仁王堂町27-6 電話:075-571-0048
拝観時間:9:00~16:30  
拝観料金:大人400円 ・障害者300円・車椅子見学・可
交   通:地下鉄東西線小野駅下車西へ徒歩6分
駐 車 場:無料

2011年8月5日金曜日

勧修寺(かじゅうじ) 氷室の池

5月23日、不肖ながら私、左橈骨遠位端骨折で京都市洛西のS病院に入院した折、本ブログをご愛読をいただいた方々からお見舞いの言葉や励ましのメールを賜りましたこと厚く御礼申し上げます。明治維新後、京都府郡部最初の小学校に使われたという
勧修寺震殿友人たちから「最近、ブログの更新がないが、どうしているのでしょう・・」との問い合わせもある。退院以後、家事援助やリハビリ・デイサービス等と心身落ち着かず後回しになっていたが、やっと40日ぶりにブログ復帰再会する。氷室池に咲く睡蓮
杜若勧修寺(かんしゅうじ)と呼ばれているが、正式寺名は「かじゅうじ」である。
900年、平安中期の昌泰3年、京都市山科区に醍醐天皇が創建した門跡寺院である。本尊は千手観音で皇室と藤原氏にゆかりの深い寺である。白鳥が何かを狙っている!
スイレンの花醍醐天皇が母(宇多天皇の妃)の菩提を弔うため、母の生家・宇治郡の大領であった宮道弥益(みやじのいやます)の邸跡と伝えられている。スイレンと杜若
氷室池はお花畑境内には平安時代の姿をよくとどめる池泉庭園「氷池園」と呼ばれ、重要文化財の書院(江戸時代)、宸殿・本堂(江戸時代・京都市指定文化財)などがある。
小雨がシトシト降りしきる庭園は、拝観者もまばらである。拝観料の方にお聴きすると、「午前中の花なので午後は花は萎むが、今日は小雨が降っているから花は綺麗に咲いていますょ」といった。雨が似合うショウブの花
雨に咲くスイレン早速「氷室の池」を半周し、生き生きと咲くスイレンや杜若を写真撮影した。
兼ねてから山科の勧修寺「氷室の池」に咲くスイレンや杜若を観賞したいとおもっていたがやっと実現した。
庭は勧修寺氷池園と呼ばれ池泉庭園である。氷室の池を中心に造園され周囲の山を借景した自然なままの美しさである。京都一、水鳥の多い寺と言われている氷室の池、前方30mのジャングルの中の島は夕方になると琵琶湖から帰って来る水鳥のお宿なそうだ。鯉と杜若
水鳥が多いがサギが子育て中氷室池を中心とする池庭は、1686(貞享3)年に後西院旧殿を賜って建てられたという。書院の南に広がる平庭の二つの部分は、南に更に広がっていたが、伏見城築城の際に秀吉に埋められ現在の大きさになった。1786(天明6)年の「拾遺都名所図会」刊によれば、15箇所の見所が描かれていが、当時の翠微滝は今枯れ滝となり中島の数も減っている。小雨ふる氷室池と観音堂
新緑も綺麗だ夏のスイレン、冬の水鳥の群れなどは四季折々の美しさがある。背後には氷室池越しに南大日山の稜線が迫り、遠く醍醐の山々が望めその奥行感のある空間構成は見事の一言。また古く平安時代には、毎年1月2日にこの池に張った氷を宮中に献上し、その氷の厚さによってその年の五穀豊穣を占ったと言われている。(なおこのブログは5月23日に遡ったものである)勧修寺つづく・・・