2010年10月13日水曜日

西院 春日神社(春日祭)

子ども神輿と本殿
東の鳥居右京区西院にある春日神社は、奈良春日大社よりご分霊を迎え、千百年余の歴史を有し、病気平癒・厄除・交通旅行安全の守り神として崇められた由緒ある神社である。本殿
神鹿石像がここにもあった10月9日(土)~10日(日)の両日、「春日祭」が行われた。
春日祭は毎年10月第2日曜に行われる秋祭りで無病息災・五穀豊穣を祈って江戸時代初期から受け継がれている。みんな笑顔で記念撮影・・・
可愛い童女祭りを盛り上げる東組・西組の二基の神輿は、それぞれ約2トンとかなり重量があるという。各町内からの法被姿の威勢の好い担ぎ手の氏子たちは、五基の剣鉾とともに鼓笛隊など盛大に巡行が行なわれた。鉄砲隊
鼓笛隊巡行行列は、東は四条御前、西は野々宮神社のお旅所、南は西小路五条を東進する。地元のふとん店の方に聞いたが、1935(昭和10)年ごろ、中京と右京が出来て氏子区域が変更した。以前は東は西高瀬川(西新道通)からお旅所付近、北は三条・南は五条と広範囲の祭りだったという。有名な「西院の拝殿回り」は、神輿が巡行を終わり、還御直前に拝殿を三度回る習わしのことで拝見できなかった。子ども神輿を行列を歩く可愛い子どもたち
四条御前にて神事があったその昔、淳和天皇(じゅんなてんのう)が退位に伴もない淳和院離宮(別名西院・この付近の地名である西院の由来となった)へ居を移すに際し、天長10年(833年)にその守護社として西院春日神社は創建された。第53代淳和天皇は平安時代初期の823(弘仁14)年から833(天長10)年間、平安宮に在位をなし、別名西院天皇といわれたという。 還来(もどろき)神社は、わらじを奉納して旅行安全を祈願する
五基の剣鉾も見ることが出来ない!                                            境内にある淳和天皇の皇后正子内親王を祀る還来(もどろき)神社は、旅行安全の神としても知られ、わらじを奉納して旅行安全を祈願する習慣が今に伝わる。また、境内にある梛(なぎ)石は、旅行前の者が撫でて還来成就祈願の祈願をすることから「撫(なで)石」とも呼ばれている。 西組神輿、卯ノ鳥(うのとり)重さは1.6t
東組神輿、千木(ちぎ)重さは2・0t月の1・11・15日には病気を治すという伝説の霊石「疱瘡(ほうそう)石」が特別公開されるという。付近では当時の淳和院の遺構が発掘されており、規模の大きな離宮であったことが判明している。また西京区大原野南春日町にある小塩山に陵墓がある。なお、紋章には淳和天皇が好きだった藤が使われ、社務所の横には“六尺藤”の藤棚があり4月下旬花の見ごろを迎えるという。 祭りの神事のあった所
西京極にお住いの101歳のTさん古くから交通安全・病気平癒の大神として信仰されている。
おゃ~車イスを発見、101歳と言う1909(明治42)年生れのお婆様に遭遇した。この近くの施設に入所していて、ご子息が今年も祭り見物に来たと仰っていた。
高齢のお婆様に肖りたいと握手もしていただいた。話の受け答えもハッキリしていて写真も撮らせていただいた。
来年の春日祭は102歳になる、お元気なことを祈っている。
<西院春日神社>
住  所:京都市右京区西院春日町61 電話:075-312-0474
境内参拝:9:00~17:00無料
交  通:阪急西院駅/嵐電西院駅より徒歩約3分
     市バス西大路四条停留所より徒歩約3分
駐 車 場:自家用車10台

2010年10月12日火曜日

洛南 矢取地蔵堂(やとりじぞうどう)

つづく・・・平安京の玄関口を偲ぶ“矢取地蔵”は別名、矢負(やおい)地蔵とも呼ばれ、九条千本の羅城門跡にある小さなお堂に祀られている。
平安時代初期のこと、嵯峨天皇の命で造営された東寺と西寺は、その勢力を競っていた。東寺には今に続く真言宗の開祖・空海がおり、一方の西寺には守敏(しゅびん)という僧がいた。 矢取地蔵は別名、矢負地蔵とも呼ばれている
小さな地蔵堂は地元 唐橋の人々から寄進・建立された824(天長元)年夏、日照りが続き人々は飢えと渇きに苦しんでいた。
ときの天皇、淳和天皇は空海と守敏に神泉苑(京都市中京区)で雨乞い祈祷を命じた。先に西寺の守敏が17日間祈念を続けたが、雨は降らなった。
次に、空海が願をかけると、天竺の無熱池に棲む善女龍王(ぜんにょりゅうおう)を勧請し、降雨祈祷を行い、みごとに三日三晩にわたって雨が続いたという。
「雨乞い合戦」は空海に軍配が上がった。
これにより、神泉苑において雨乞いの儀式が行われるようになったといわれる。矢負地蔵由来記
合戦に敗れ、面目をつぶされた守敏は空海をねたみ、羅城門近くで待ち伏せし後から矢を放った。するとそこに一人の黒衣の僧が現れ、守敏の矢を右肩に受け、空海は難を逃れたという。空海の身代わりになった僧は、実はお地蔵さまの化身であり、のちにそのお地蔵さまは「矢取地蔵」とか「矢負地蔵」と呼ばれ、人々の信仰を集めてきたという。
石造、本尊矢取地蔵尊は高さ約160cm、別名「矢負地蔵」と称され、右肩に矢傷の跡が残っていると伝えられている。
小さな地蔵堂は1885(明治18)年地元 唐橋の(八条村)人々により寄進され建立された。なお昭和初期には、地蔵堂の周辺から多数の地蔵が発掘され、現在も堂宇の右側に祀られている。「その昔、この辺りは刑場があり、お地蔵さんは打ち首になった人の供養塔・・・だが、お地蔵さんは“子どもの守り本尊”で大事にしたい」と地元の人は話している。堂宇の右側に地蔵が多数祀られている
小さな境内にはカリンが実っていた四季の花々が手向けられ、地元の人々が手を合わせ、大切に守られてきた様子が伝わってくる地蔵堂「矢取地蔵尊」は今日もまた優しい顔で民衆を見守っている。
(完)
<矢取地蔵堂>
場所:京都市南区唐橋羅城門
交通:市バス羅城門直ぐ

2010年10月11日月曜日

洛南 羅城門跡と西寺跡

今は不朽の業績、モニュメントだけ!羅城門跡は、南区九条通千本東にあって、京の都を貫く朱雀(すざく)大路の表玄関として、幅約35m、奥行約9m、高さ約21mの丹塗りの二重楼閣で、794年(延暦13)の平安遷都の際に建造されたという。
816(弘仁7)年、大風で倒壊し再建されるが、980(天元3)年、暴風雨の為またしても倒壊、以後再建されず、その後平安京の衰退とともに荒廃した。九条通り北側、矢取地蔵堂の横に「羅生門跡」という標識が立っている
羅城門は二度の台風で倒壊し以後再建されなかった現在、東寺に所蔵する木造「兜跋毘沙門天像(国宝)」や「三彩鬼瓦(重文」は羅城門上に安置されていたものと伝えられている。
現在は九条通の北側にある矢取地蔵堂の裏の公園内に「羅生門遺跡」という石碑が立っている。この石標は1895 (明治28)年、平安遷都千百年記念祭の事業として建立された。
東寺並んで西寺もあった一方、 西寺は796(延暦15)年頃、都が遷都されてから平安京の入口にあたる羅城門の西側に東寺(教王護国寺)と対称に造営された寺である。
建立されたころの西寺は、金堂、講堂、南大門、中門、五重塔、僧房、食堂など建ち並び、金堂・講堂の屋根は緑釉瓦(りょくゆうかわら)で葺かれ、寺の域は東西二町(250m)南北四町(510m)を有し、威風堂々聳え建っていた。
しかし、西寺は1233(天福元)年、塔が焼失後、以降再興されることなく地中に埋もれてしまって、今は唐橋の西寺児童公園の小高い丘に講堂礎石一つと「史跡西寺跡」の石碑が立つのみで遺跡は地下に残されている。主要伽藍は現在の唐橋小学校と西寺児童公園中央の下に、講堂跡が土塁として残っている。東の東寺と並んで西寺の伽藍は建っていた
西寺は地中深く埋もれている伽藍中心部は国の史跡に指定され、平安京の寺院研究上、また平安京を復元する際には東寺とともに貴重で重要な遺構である。羅生門の遺跡は度重なる倒壊とそれら礎石や門石を藤原道長が法成寺建立に際し、持出し、発掘の際には殆ど遺構がみつからなかったそうだ。羅城門は京都の表玄関として、東寺と西寺、両輪の寺があったらばと・・・ふと、ノスタルジックに想いを馳せた。矢取地蔵堂へつづく・・・
<羅城門跡&西寺跡>
場 所:京都市南区唐橋
交 通:市バス羅城門下車直ぐ
    西寺跡、市バス西寺下車徒歩2分

2010年10月8日金曜日

地域リハのつどい「スポーツ」

いつもお世話になっている中京区の京都市身体障害者リハビリテーションセンター3階の体育館で“地域リハつどい「スポーツ」”が10:00から開かれた。洛西から市バスで45分ほど、リハビリセンターは四条御前の東行きバス停の北側にある。職員よるルールの説明など
25人の障害者たちが集まっていた参加者は既に集合していて、名前を確認し血圧測定をしたが血圧は最高130で最低が82で平常あった。今日は、フライングディスクとボッチャをする計画がされている。市職員のスポーツの競技方法を聞き2組に別れた。お見事、ディスクはゴール
遊びが転じた、円盤フライングディスクは、過去何回も挑戦している。
円盤をお腹の辺りに構え、5m先の輪の中を通過するものであるが、なかなか思うようにゴールインしない・・・簡単だけどメンタル的なスポーツである。難しい競技ではないが精神的なスポーツである
円盤はプラスチック製で、投げると揚力が生ずるフライングディスクは、回転させ投げて遊ぶ円盤(ディスク)である。また、フリスビーとも呼ばれるが、1940(昭和15)年ごろ、発明者は恋人と海岸でケーキ皿を投げて遊んでいて着想したという。フリスビーは発案者の名前でもある。円盤はプラスチック製で、直径約20センチから25センチ程度のものが多い。手で勢いよく回し投げると揚力が生じるよう設計されており、そのまま手で受け止められる。
ボッチャはまったく初めての参加である。ルールを聞いて試合開始。白い的球と赤・青の球、ルールを聞き開始
的球の近くによれば勝ち3人1組のチームの先攻で挑んだ。白い的球があり、どれくらい近くに寄せれるかを、競技するのである。
ゲームの始めに、先攻の人が的球(長さ12.5m、幅6m)を投げる。
ボールは2投のみで、的球がコート内の有効エリアに収まるまで投球を繰り返す。続いて1巡目の投球は的球を投げた側の先行、次に相手側の順で的玉に向けてボールを転がす。 ラッキー、Fチーム3人は優勝した
2巡目以降ボールが尽きるまでの投球は、的球に遠いボールを投げたサイドが、相手チームよりも近いボールを投げられるまで連続して投球を行う。各ラウンドの終了、すなわちエンドの度に審判は的球と投げられたボールとの間の距離を測定し、そのエンドで負けた側の最も的球に近いボールよりもさらに的球に近いボールに各1点が与えられる。ゲーム終了後に高得点を上げたチームないしは競技者が勝ちとなる。
ボッチャは初競技だったが三戦3勝の好成績、Fチーム3人が優勝の栄誉を勝ち取った。

ボッチャは障害者の競技者向けに考案された種目であり、ルールを見たら難しいと思うがそれ程でもなく、楽しい時間であった。

2010年10月6日水曜日

京都御苑 各門と通用口(その2)

つづく・・・上京区にある京都御苑内には、約5万本の樹木が生育していて、御所の歴史と由緒ある景観を維持している。
京都御苑周囲の地区一帯は約63haの面積で国民公園に指定されている。今出川御門
糸桜の名所、近衛邸跡総面積は約92haで京都御苑は葵祭や時代祭など市内の中心部に位置し、観光にもオアシスにも好く利用しているが、国民公園は都市公園とは異なり、環境省が管理する公園である。
国民公園は東京の皇居外苑・新宿御苑と京都御苑の日本で三ヶ所しかない。明治天皇が産湯使った場所
中山邸跡1869(明治2)年、明治天皇が東京遷都により多くの公家たちも東京に移住し、それまで御所周辺の約200余りの公家屋敷はすっかり荒廃していった。1877(明治10)年に京都に還幸された明治天皇が、京都御所一帯の荒れ果てた様子を見て深く嘆き、御所保存を命じられ、10年間で「大内保存事業」が進められたが、京都民衆の力のもと僅か6年間で復興が終り現在の京都御苑の始まりである。石薬師御門
今出川口さて今出川御門は北に位置し京都御所の朔平門に近く、近衛家は五摂家の一つで摂政・関白など多数が出世した。また御所炎上の際には屋敷は仮の皇居にもなったという。近衛邸跡の池の畔は、昔から糸桜の名所で桜の咲くころ、大勢の人が花見に訪れている。今出川御門の左は桂宮邸跡。
この辺りの森は自然のまま放置している京都御所の鬼門位置に猿ヶ辻がある。
この猿は日吉山王神社(ひえさんのうじんじゃ)の使者だが、夜悪さをする為、金網で閉じ込めたと言う。一方、幕末のさなかの1863(文久3)年、公家の一人がこの付近で暗殺。猿ヶ辻の変という。
その向かい側に中山邸跡と祐(さち)ノ井がある。

中山忠能(ただやす)は幕末期、權大納言の要職でその娘、慶子(よしこ)を母とし、1852(嘉永5)年、祐宮「さちのみや(後の明治天皇)」が誕生した。 鳥の囀りを聞きながら森で本と親しむ
敷地内には産屋と井戸が遺っている。祐宮にちなんで祐ノ井と名付けられた。今出川口に出られる。
いよいよ寺町今出川を南下し石薬師御門、この辺りの森は“枝打ち”などせずに自然のまま放置し、枯れ枝が落下するので立て看板で注意を払っているが、野鳥の宝庫、鳥の囀りを聞きながら森で本と親しむのも好い。 染殿井の遺構がある
京都迎賓館の外壁散歩道を進むと真新しい壁は、京都迎賓館、「染殿第跡」で、平安時代前期に臣下として、最初の摂政に任じられ、摂関政治の礎を築いた、藤原良房の邸があった所と言われておる。
ここにある井戸は「染殿井」と呼ばれているのも、染殿第にちなんだものだという。あと、門は二つになった。
清和院御門清和院御門の名の由来は、染殿第は、良房の娘・明子(文徳天皇の后で清和天皇の生母)の御所であり、清和天皇は譲位後、ここに移されて「清和院」になったという。なるほと、御門には深い意味が込められている。清和院御門をあとに大宮・仙洞御所の長い丙伝いに寺町御門へと歩いた。
寺町御門寺町御門は百日紅が綺麗に咲き、北に大宮・仙洞御所、南に富小路広場があり、老若男女の方が散策や休養などスポーツの場やふれあいを楽しみに訪れていた。またトンボ池もある。
1949(昭和24)年、京都御苑は国民公園として広く開放され現在に至っている。
(完)

近衛邸跡の池の畔「孝明天皇」の歌
 昔より 名にはきけども 今日みれば むべめかれせぬ 糸さくらかな

2010年10月5日火曜日

京都御苑 各門と通用口(その1)

京都御苑は市内の中心部にあって豊富な緑に包まれた「国民公園」である。縣の井戸乾の御門
東西約700m、南北約1,300mの長方形をしており、京都御所や大宮・仙洞御所などを除く約63haが終日解放されている。中立売御門
緑豊かな京都御苑の外周は、九つの門と5つの通用口がある。
簡単に一周することにして散策に出かけた。閉門されていたが、大火で開くようになった
東山・如意ヶ岳の大文字がみえるまず始めは、烏丸今出川通りの乾御門、この付近は江戸時代、五摂家の一つ一條邸跡で、昔井戸の傍に縣宮社(あがたのみやしゃ)があって、出世の願う者は井戸の水で身を清めて祈願し宮中にのぼったという縣の井戸がある。下立売御門
出水口中立売休憩所過ぎると、中立売御門は観光バスなど駐車場の施設があり特に御門や人にも事故には注意を促したい。
三番目は、有名な蛤御門、この門は“新在家門”と呼ばれていたが、江戸時代の大火で、それまで閉門されていたが、初めて開門され「焼けて口開く蛤」に、たとえて蛤御門となったという。また1864(元治元)年、この門の周辺で、「禁門の変(蛤御門の変)」があり、その時の鉄砲の弾痕が今も門の梁に残っている。蛤御門から大宮・仙洞御所を隔てて東山・如意ヶ岳の大文字も見える。椹木口昔の石垣が残っている
出水口には出水の小川が流れている、次は下立売御門を経て椹木口では、旧二条城の復元石垣もあった。時代祭は堺町御門から出る
丸太町通りの間ノ町口スポーツなど富小路広場がある富小路口烏丸通りから丸太町通りを東へ進むと拾翠亭の 間ノ町口である。既に九條邸跡・拾翠亭、厳島神社は紹介済みであるが、境町御門は京都御所の建礼門から真直ぐ真南を指し葵祭や時代祭はこの門から丸太町通りに出る。
そして、富小路口に入ったが後半は今出川御門からつづきとする。