2011年9月5日月曜日

京都山科 仏光院

仏光院は、真言宗山階(やましな)派の寺で勧修寺(かじゅうじ)境内の塔頭があった跡地に建っている。創建は1951(昭和26)年に大石順教尼によって建立され、本堂の本尊は千手観音像を祀った寺院である。本堂の本尊は千手観音像を祀った寺
仏光院は、真言宗山階派の寺大石順教尼は千手観音菩薩を念持仏としていたが、観音さまの双手を借りて悩み苦しむ人々を救済するため、等身大の慈手観音を建立した。
  何事も 成せばなるてふ 言の葉を
           胸にきざみて 生きて来し我れ 
(順教尼)大石順教尼は17歳の時、両腕を切り落とされた
大石順教尼は1888(明治21)年、大阪道頓堀の生まれで本名「大石よね」といった。
幼少の頃から山村流に師事し名取となった。大阪堀江の芸姑への道めざし、芸者・妻吉(つまきち)と名乗り、「山梅楼(やまうめろう)」の雇われ芸姑として主人中川萬次郎の養女になった。
1905(明治83)年6月21日、17歳のとき、恐ろしい悲劇が起った。
舞踊の修業を指導していた養父が狂乱、一家5人を斬殺、堀江廓六人斬で巻き添えとなり両腕を失うが奇跡的に唯一人生き残った。事起こりは、養父の萬次郎が内縁の妻が男と駆け落ちした事から酒に溺れて狂乱し、同居していた内縁の妻の母親、弟、妹、姪と養女の芸奴二人も巻き添えにして、五人を惨殺、堀江六人斬事件が起こった。
日本中を震撼させたこの恐ろしい惨劇は、若干17歳の妻吉(大石順教尼)にも降り懸かり両腕を切断され、顔に切り傷を受けたが、唯一人一命だけは取り留めた。書道は独学の才媛
苦難を乗り越え、口に筆をくわえ書画を描くその後、彼女の人生は一変した。事件の被害者・身障者である姿を見世物として、絶望と周囲の好奇の目に耐えながら、地方(じかた)に転向し長唄、地歌などを披露、旅回り一座に参加し生計を立てた。
三年後、巡業中の旅先で鳥かごのカナリヤを見て心打たれた!親鳥が雛に口で餌を運ぶ姿を見て、鳥は手が無くても懸命に生きることに気付いた。
よねは、カナリヤの姿に一念発起し、口に筆を含み書や絵を描くという修練に励んだ。また学問は小学校に通って字を習い独学で書道を習得したという。仏光院えんかく
自身と等身大の慈手観音を建立1912(明治45)年24歳の時、日本画家の山口草平と結婚し一男一女の母となるも、37歳で離婚した。この不幸のどん底から苦難を乗り越え、求道者として43歳のとき高野山で出家得度し、「堀江事件」の犠牲者の追善と共に身体障害者の救済に生涯を捧げた。
1933(昭和8)年出家・得度し名を「順教」と改め、1936(昭和11)年、勧修寺境内に身体障害者福祉相談所を開設、さらに1951(昭和26)年、仏光院を建立した。
両手のないままに口に筆をくわえて書画を描く精神は、非凡な才能を示し1955(昭和30)年、日展に入選した。また1962(昭和37)年、日本人として東洋に最初の世界身体障害者芸術家協会の会員にも選ばれた。
庭園は拝観謝絶全国身体障害者の心の母、“慈母観音”と慕われた大石順教尼は、「仏光院」の院主として1968(昭和43)年4月21日、自坊で天寿を全うした。享年81歳。
仏光院の境内には草庵跡、吉井勇の歌碑に
  “そのむかし 臙脂(えんじ)を塗りしくちびるに 
                         筆をふくみて書く文ぞこれ”
 
観光寺院ではなく、小さな庵という印象の寺だが今でも多くの人々に慕われている。
<仏光院>
拝観:自由
場所:京都市山科区勧修寺仁王堂町16
交通:地下鉄 小野駅徒歩約5分

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