この神社は清和源氏の祖と仰がれる六孫王源経基(みなもとつねもと)を祀っている。
本殿に源経基を、相殿に天照大神、八幡大神を合祀している。
清和天皇の孫で清和源氏の祖と仰がれる源経基を祀っていることから「清和源氏発祥の宮」を称している。源経基は清和天皇の第六皇子貞純(さだずみ)親王の子であり、母は右大臣源能有(よしあり)の娘。天皇の孫であることから「六孫王」と呼ばれたが、臣籍(しんせき)に下って源(みなもと)姓を賜った。
神社の伝えでは、この地は経基の邸宅のあった場所で、その子源満仲が応和年間(961~963)に初めて社殿を建立したといわれる。その後、いつしか荒廃していたものを、元禄13年(1700)、当社の北隣の遍照心院の南谷上人が幕府に請うて再建し、この神社を遍照心院(別名大通寺)の鎮座とした。
本殿背後の石の基壇は経基の遺骸を納めた場所で、神廟といわれる。
境内北の弁天堂内には満仲誕生水がある。古くから京都名水の一つとされている。江戸時代には源氏ゆかりの神社として武家の信仰が厚かったことは、境内石灯篭に松平吉保など諸大名の寄進者名が見えることで偲ばれる。
これが当社の現在の建物であり(京都市指定建造物)宝永年間に社殿が再建された。そのため、10月の例祭は「宝永祭」という。
宝永年間に再興した神社の例祭は13時より行われた。
本殿に神輿が担がれ厳かに神妙に神事が執り行われた。
先頭に神官の格好をした子どもたち、金銀の御幣・鉾・盾を持ち(現在持ち物は榊にお守りを付けた物を持つ)続いて四方〈青竜・白虎・玄武・朱雀〉を表す鬼、弓矢太刀を持った神人がつづき、地元神友会の皆に担がれた神輿はワッショイワッショイ巡行する。まず、八条通りより大宮通り南下、そして大通寺に祭列一団が到着する。九条通りに進み西は旧千本通りを北上する。
宝永祭神輿は通りに囲まれた町内を午後五時頃まで練り歩くという。
<六孫王神社>
・住所:〒601-8471京都市南区壬生通八条角
・電話:075-691-0310
・拝観:境内自由
・交通:JR各線、近鉄京都線、地下鉄烏丸線「京都」より徒歩13分。
市バス 16系統「六孫王神社前」バス停より直ぐ。
清和天皇の孫で清和源氏の祖と仰がれる源経基を祀っていることから「清和源氏発祥の宮」を称している。源経基は清和天皇の第六皇子貞純(さだずみ)親王の子であり、母は右大臣源能有(よしあり)の娘。天皇の孫であることから「六孫王」と呼ばれたが、臣籍(しんせき)に下って源(みなもと)姓を賜った。
神社の伝えでは、この地は経基の邸宅のあった場所で、その子源満仲が応和年間(961~963)に初めて社殿を建立したといわれる。その後、いつしか荒廃していたものを、元禄13年(1700)、当社の北隣の遍照心院の南谷上人が幕府に請うて再建し、この神社を遍照心院(別名大通寺)の鎮座とした。
本殿背後の石の基壇は経基の遺骸を納めた場所で、神廟といわれる。
境内北の弁天堂内には満仲誕生水がある。古くから京都名水の一つとされている。江戸時代には源氏ゆかりの神社として武家の信仰が厚かったことは、境内石灯篭に松平吉保など諸大名の寄進者名が見えることで偲ばれる。
これが当社の現在の建物であり(京都市指定建造物)宝永年間に社殿が再建された。そのため、10月の例祭は「宝永祭」という。
宝永年間に再興した神社の例祭は13時より行われた。
本殿に神輿が担がれ厳かに神妙に神事が執り行われた。
先頭に神官の格好をした子どもたち、金銀の御幣・鉾・盾を持ち(現在持ち物は榊にお守りを付けた物を持つ)続いて四方〈青竜・白虎・玄武・朱雀〉を表す鬼、弓矢太刀を持った神人がつづき、地元神友会の皆に担がれた神輿はワッショイワッショイ巡行する。まず、八条通りより大宮通り南下、そして大通寺に祭列一団が到着する。九条通りに進み西は旧千本通りを北上する。
宝永祭神輿は通りに囲まれた町内を午後五時頃まで練り歩くという。
<六孫王神社>
・住所:〒601-8471京都市南区壬生通八条角
・電話:075-691-0310
・拝観:境内自由
・交通:JR各線、近鉄京都線、地下鉄烏丸線「京都」より徒歩13分。
市バス 16系統「六孫王神社前」バス停より直ぐ。
0 件のコメント:
コメントを投稿