2009年5月21日木曜日

史跡 和歌山城

南通りから見上げた和歌山城
入城門から見上げた天守閣
スーパー駅長“たま”ちゃんを見てJR和歌山駅にもどり、乗り合いバスでお城を見学した。知らない土地柄で頼るのは他人任せだが、親切丁寧に教わり恐縮した。
和歌山城大手門公園前のバス停に着いた。
江戸時代、和歌山城は別名「虎伏山竹垣城」と呼ばれていた! 天守閣より眺めた和歌山市内
入城門天正13年(1585)豊臣秀吉が紀州を統一し、弟羽柴秀長の領地になり、虎伏山の地をえらび自ら縄張りし藤堂高虎等を普請奉行として本丸および二の丸を築城させた。翌14年から秀長の城代、桑山重晴が在城し、はじめて若山または和歌山の城になった。慶長5年(1600)浅野幸長が37万石、その後、長晟と二代在城した。
元和5年(1619)徳川家康の第十子頼宣が55万5千石を領して入城。
以来14代253年間幕府の親藩紀州徳川の居城として大いに栄えた。樹齢は約450年の樟樹
表門・大手門まず大手門は浅野・徳川時代には表門として機能、当初は一之橋御門とよばれていたが、寛政8年(1796)大手御門と改称され、高麗門形式に復元された。さらに、一の橋の樟樹(天然記念物)がある。
城内最大の樹木で推定樹齢は約450年。和歌山大空襲で損害を受けたが、樹勢が回復し今日に至っている。自然は素晴しい!和歌山城は「虎伏城・伏虎城」などとも呼ばれている
本丸御殿跡奥へ進むと伏虎像があった。これは、お城の建つ山が、海上から見ると猛虎が伏している姿に似ていて現在でも、和歌山城は、「虎伏城」・「伏虎城」などとも呼ばれている。この像は二代目。初代は郷土出身の女流作家有吉佐和子著『紀ノ川』にも登場する”銅像”であった。昭和17年(1942)戦時下のため供出された。
二の丸御殿跡には幼稚園児の姿も見られた。
いよいよ、天守閣めざす!!善意の杖が置かれてある。石垣に根が絡まる、「銀明水」という井戸、本丸御殿跡、築城400年余を偲んで登った。乾櫓(北西)
大天守閣の入口和歌山城天守閣がみえる…大天守、小天守、乾櫓、二の門櫓、楠門を多聞によって連結させた連立式天守閣である。各層の屋根には、千鳥破風を交互に配し、上層階には物見のための高欄をめぐらし、大天守の隅には石落としを設けるなど、江戸初期頃の様式を残している。
とくに特徴は、ひし形の敷地に左右され、乾櫓(北西)と大天守(南東)が張り出し、城下の北東と南西からの姿に雄大さを増すように工夫されている。
現在の天守閣は、昭和20年7月に戦災で焼失した天守閣(国宝)を、昭和33年10月に鉄筋コンクリート造で復元したものである。古城の風格を表す高石垣
国の重要文化財、岡田門「搦(からめ)手門」(裏門)ともいう岡口門は搦(からめ)手門(裏門)として建造した。切妻造りで、右に御蔵、左に二重櫓がある。また北に接する土塀も当時のもので特に狭間(銃眼)は一枚石のくり抜きになっている珍しいものである。高石垣は寛永2年(1625年)築造されたもので、高さ23.4m(13間)あり城中石垣のうち最高であり古城の風格を表していた。
史跡・岡山の時鐘堂史跡岡山の時鐘堂は江戸時代中頃、正徳2年(1712)時の藩主、第5代徳川吉宗により紀州藩が設置した。梵鐘は、元和元年(1615)のいわゆる大坂夏の陣で豊臣方が使用した青銅製の大筒(大砲)を徳川方が捕獲し、紀州藩が保管していたが、それを後に粉河の鋳物工人に命じて梵鐘に鋳なおさせたものと伝えられる。
約6m四方2階建ての鐘楼で、2階の大梁に梵鐘がつり下げられている。この鐘は藩士の登城時や時の刻を城下に知らせ二人の番人によって管理、刻限毎につき鳴らされたと伝えられる。また、時鐘堂のよこには「禁殺生」の碑もある。天守閣から見ると「ひし形の敷地が分る、後方は紀ノ川
城下町和歌山市内和歌山城は弘化3年(1846)には落雷により天守閣多門などが焼失、嘉永3年(1850)再建され国宝建造物として指定を受けていたが昭和20年(1945)戦火のため、またもその姿を消した。同34年和歌山公園として始めて公開された。
本城は、浅野時代の大手門であり徳川元和7年改修の時以来搦手門となった岡口門は、和歌山城唯一の遺構として昭和32年6月重要文化財として指定されている。平成18年3月に復元された斜めに架かる「御橋廊下」を見ることができなかったのは残念である!
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