2009年5月5日火曜日

賀茂御祖(下鴨)神社・流鏑馬神事

伝統格式高い小笠原流
流鏑馬神事疾走する馬上から弓矢で的を射る「流鏑馬(やぶさめ)神事」が下鴨神社で行われ、伝統の勇壮な妙技が観客を魅了した。
「流鏑馬」は毎年5月3日葵祭(5月15日)の前儀として行われる行事のひとつ。
葵祭の当日、御所より当神社へ至る行列の道中が平穏無事に行われるよう、祓い清めるために行われる神事。長年京都に住みながら一度も観る機会がなかった。見事的中疾走する馬上から弓矢で的を射る流鏑馬は、「やぼさめ」「矢伏射馬」とも書くが、『貞丈雅記』に馬を走らせながら鏑矢を射ることである。下鴨神社では、流鏑馬とは云わずに「騎射(きしゃ)」と明治初年まで呼んでいた。この騎射が、いわゆる流鏑馬の原形。その騎射の歴史は『日本書紀』雄略天皇即位の年(457)に「騁射」(うまゆみ)を行ったとある。また天武天皇9年(682)「長柄宮にて馬的射」ともあり、これもまた流鏑馬のことで、古くから行われていたのがわかる。葵祭の前儀・流鏑馬伝統の儀式にのって
当神社では、境内の糺の森から古墳時代の馬具が出土した。また、『続日本紀』に「文武天皇2年(698)賀茂祭(葵祭)の日に民衆を集めて騎射を禁ず」とあり、葵祭の日の騎射に大勢の見物人が集まるため三度も禁止令が出るほど、有名になっていて、古くから行われていたことがうかがえる。見事的中、おもわず拍手がおこるいざ出陣!
葵祭の前儀流鏑馬神事は、儀式の最初の三馳を伝統によって騎射と称し、作法や装束、用具などは古来からの法式によって近衛府(このえのつかさ)の大将が長官となり、近衛府の将監(じょう)や将曹(さかん)、馬寮の助や允、あるいは当神社の氏人が騎射を行った。その後で武家が狩装束を着け、流鏑馬を行うのが習となっている。真剣な眼差しで流鏑馬をみる一の的、的中二から三の的へ
葵祭の路頭の儀が中絶したことによって騎射もまた中絶し、神事は中断した。武家は各地で流鏑馬として盛んに行うようになった。元禄7年(1694)、葵祭が再興されたとき、騎射も伝統の作法により再興されたが、明治2年(1869)東京遷都祈願行幸のときに行われた後、ふたたび中絶することにいたった。凱旋した馬が戻ってくる
葵祭行列の道中が平穏無事に行われるよう、祓い清めるために行われる神事昭和48年、下鴨神社式年遷宮の記念行事として、名称を流鏑馬神事と改め、100数年ぶりに復活した。これを期に騎射の伝統を受け継いだ公卿の流鏑馬の保存を図るため糺の森流鏑馬神事等保存会を結成、小笹原流同門会のご支援を受け、葵祭の前儀、流鏑馬神事として騎射が行われている。 的中の的が大3中2小1千円で売られていた!
「イン、ヨー(陰陽)」という掛け声とともに矢を放ち、的の板が割れるたびに大きな歓声がわいた新緑が輝く境内の「糺の森」で、公家や武士の装束に身を包んだ射手たちが馬に乗って疾走。100mおきに設けられた3つの的を狙って「イン、ヨー(陰陽)」という掛け声とともに矢を放ち、的の板が割れるたびに大きな歓声がわいた。

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