2009年11月26日木曜日

洛北 圓光寺(えんこうじ)

本堂からの眺める紅葉
別名、洛陽学校とも言われた圓光寺最古の木活字を残す家康ゆかりの寺、洛北圓光寺(えんこうじ)に行った。
圓光寺は臨済宗南禅寺派に属する古刹で、号は瑞巌山(ずいげんざん)という。
1601年(慶長6年)に徳川家康によって開かれた比較的新しい寺。紅葉が美しい「十牛(じゅうぎゅう)の庭」は、素晴しい
玄関の襖絵京都伏見に開いた学問所を起源として足利学校から招いた三要元佶(さんようげんきつ)和尚が開基した。始めは伏見の地にあり、のちに相国寺山内を経て1667年(寛文7年)に現在の地に移った。米點山水圖。富岡鐵斉48歳の作本堂前の水琴窟。竹筒に耳をつけると琴の音に似た涼しい音がきこえる
徳川家康はこの寺で武士や僧侶に仏教ではなく儒学を習わせたとう。玄関を入ると・・・色鮮やかな楓

ここでは教学の一環として孔子家語、貞観政要などの書物を発行しており、圓光寺伝来の「伏見版木製活字(国重要文化財に指定52,230個約400年前)」を与えて多くの書物を出版させている。使用された木製活字は現存する活字としては最古といわれ、これまでに使用された木活字が現存していて、宝物庫で見る事ができる。寺ではなく確かに学校の現れでいまも大切に保存されている。雨竹風竹図屏風・円山応挙作
飾り窓からの紅葉寺といえば本尊は千手観世音坐像本堂に安置され、南禅寺派の禅寺として公開されているが、一時は尼僧の専門道場の時期のあったようだ!今は南禅寺の研修道場として使われている。長い間、修行道場で一般には公開はされていなかった。
また元佶和尚像一幅と円山応挙が描いた重要文化財の竹林図屏風六曲一双などを寺宝として所蔵している。裏山の高台にある徳川家康を祀る東照宮
井伊直弼に仕えた密偵・村山たかの墓また紅葉の名所として知られる栖龍池(せいりゅうち)を囲む、庭園「十牛(じゅうぎゅう)の庭」は、禅の修業の課程を表しているといわれている。
庭園へ一歩足を入れると、水琴窟の澄んだ音も聞かれ、柄杓(ひしゃく)で水を落し、竹筒に耳をつけると琴の音に似た涼しい音を聞ける。栖龍池(せいりゅうち)は、洛北一の古い池といわれている。 裏山からは見晴らしが良い
境内の墓地には、儒学者の中村惕斎(てきさい)と井伊直弼に仕えた密偵・村山たかの墓がある。さらに、その墓地の奥の高台に徳川家康を祀る「東照宮」がある。東照宮のある高台からは、市街が一望できる。

<圓光寺>
京都市左京区一乗寺小谷町13
拝観時間 9:00~16:30
拝観料  大人400円(障害者手帳200円)
電話 075-781-8025
・叡山電鉄「修学院駅」徒歩25分
・市バス 5系統「一乗寺下り松」下車徒歩10分

2009年11月25日水曜日

島原太夫=かしの式

梅小路公園(京都市都市緑化協会)では区130周年協賛事業の一環として「下京区ふれ愛ひろば」を開催した。
輪違屋は300年以上の歴史を誇る(市指定有形文化財)
島原大門(市指定建造物)幅一間、本瓦葺、切妻の高麗門会場付近は、梅小路蒸気機関車館特別企画やミニ新幹線体験乗車や、鍋まつり(中央卸売市場第一市場)などが行われた。オープニングステージでは園児たちの遊戯やコーラス・南京玉すだれ、一輪車やフォークダンスなど催された。
梅小路公園ふれ愛ひろばには今も街の顔である太夫による『島原太夫道中』の振る舞いを披露するイベントが行われた。地元嶋原商店街提供による、島原太夫が「かしの式」の儀式を披露された。太夫が一人一人、お客と対面する「顔見せ」。太夫は、言葉をしゃべる事は許されず、仕種と立ち振る舞いとまなざしでアピールする
禿を従え、「如月太夫」の儀式が始まる太夫が客と接見する際に杯を使って名を告げる儀式「かしの式」を実演、つづいて胡弓(こきゅう)を一曲奏で優雅な舞い姿を披露し、めったに見られない島原太夫のあでやかな姿に会場はうっとりとしていた。午後3時からは、嶋原商店街の大宮通側入口より島原大門までの約350mで『島原太夫道中』がある。
嶋原(しまばら)は「島原」とも云い正式地名は西新屋敷と言って花街の名称。1976年に京都花街組合連合会を脱会し、現在は輪違屋のみが茶屋営業を行っている。琴に合わせて胡弓を奏でる
うしろ姿にも表情が覗える国内最初の幕府公認の花街で当時は祇園よりも高い格式を誇っていたが、今では面影はほとんど残っていない。その後、1641年には朱雀野付近への移転が命ぜられた。以後「嶋原」の名称は、この移転騒動が“島原の乱”に似ていたためというが諸々説がある。
また島原大門の周りは壁や堀に囲まれ、出入り口として東の大門は元禄期に最も栄えた。しかし、立地条件が悪かったことや格式の高さが原因となって次第に衰えていった。明治以後は公家、武家の常連客が途絶え、さらに窮状に置かれるものの「太夫道中」などの行事で支えていた。昭和後期にお茶屋、太夫、芸妓の人数が減り、ついにはお茶屋組合が解散した。 島原の西門、度重なる輪禍によって全壊した。直ぐ傍に島原住吉神社がある
「角屋(すみや)もてなしの文化美術館」現在2階は建物保存のため人数制限している、必ず事前予約のこと現在は「大門」、「輪違屋」、「角屋」がその面影をとどめているだけである。お茶屋として営業を続けているのは輪違屋のみだけで、揚屋は営業は行っていないが角屋(重要文化財)は建築物として今も日本に唯一残る揚屋造の遺構である。太夫の着物の衿元が折り返されているが、これは御所に上がることが出来る「正五位」の官位である格式を現している
可愛らしい禿、一晩中蝋燭を燈していたので煤で真黒という!「太夫」とはもともと能楽や歌舞伎の舞台で秀でた者に与えられた称号であり、最初は京都の女歌舞伎で活躍した女性が「太夫」(舞太夫、能太夫)などと呼ばれた。しかし1629年に女歌舞伎が禁止されて以降、優れた技能、教養を持つ最高位の遊女の名として定着したものである。
太夫は通称「こったい」とも呼ばれ、置屋に所属して揚屋に派遣される(この形態が祇園等、他の花街に影響を与えた)。 笑顔が素敵な如月太夫
あらゆることを学び嗜むことが必要とされる太夫かつては正五位の地位をも与えられた最高位の遊女であった。太夫はもと御所の公家、皇族が相手であったため、教養に長けた芸妓でなければならない。能や舞をルーツに持つとされる嶋原の太夫にとって「舞踊(現在は特定の流派はない)」さらに茶道・和楽器、唄、書道、香道、華道、詩歌、古典的遊び(貝合わせ、囲碁、盤双六、投扇興など)も必要とされ、話術も重視されている。
嶋原からは、八千代太夫、吉野太夫、夕霧太夫、大橋太夫、桜木太夫などの名妓が輩出した。また、戦後在籍していた太夫に、夕霧太夫、高砂太夫、九重太夫、薄雲太夫、若雲太夫、春日太夫、花雲太夫、花琴太夫などがいる。近くでは滅多に見ることが出来ない太夫、重さ45kgにもおよぶ豪華な衣装に身を包むというから驚き!
帯は前で5角形に結ぶ、これは「心」の字を表すという祇園の舞妓、芸妓と同様の白塗りの厚化粧で、口紅は下唇のみに塗り、必ずお歯黒を付け引眉しないので江戸時代の半元服の習慣が今も続いている。公家文化の影響とも考えられ原則として鬘(かつら)を被らず、自毛で日本髪を結う。
帯は前で5角形に結ぶが、これは「心」の字を表すとされている。幕末には西郷隆盛、久坂玄瑞や桂小五郎、坂本龍馬・新撰組らが出入りしていた。
1873年には、のちに歌舞練場となる島原女紅場が置かれたという。
現在、太夫は花扇太夫、司太夫、如月太夫の3名である。京都を中心に「輪違屋」のお座敷のつとめの数々の行事やイベントに参加している。
「角屋もてなしの文化美術館」には蕪村の「紅白梅図」(重要文化財)や島原住吉神社もある。素足に高下駄姿の太夫が独特の所作で「内八文字」は100mで中止になった。如月・うす雲太夫と禿
明治40年代の頃の「島原」太夫道中を発見した残念な事に5年ぶりに「島原太夫道中」は降り出した雨で途中、中止になってしまった。重さ45kgにもおよぶ豪華な衣装に身を包み、素足に高下駄姿の太夫が独特の所作で、置屋から揚屋へ「内八文字」を踏んで練り歩く様子と傘持ちなど禿を引き連れ練り歩く姿は雨のため今回は写真撮影になった。
島原へのアクセス
JR山陰線丹波口駅下車 徒歩3分 
市バス 島原口 徒歩約3分
市バス 梅小路公園前 徒歩約10分

2009年11月23日月曜日

史蹟:青蓮院門跡

青蓮院門跡は洛東東山粟田口にある寺院で開基は日本天台宗の祖、最澄で(伝教大師)本尊は熾盛光如来(しじょうこう)である。
南無大聖大悲青不動明王
青蓮院入口現在、日本三不動画の一つとして平安時代から信仰されている青蓮院門跡の国宝「青不動明王二童子像」が創建以来、初めてご開帳、紅葉と併せてライトアップ中である。国宝「青不動明王二童子像」
青不動は火焔を背負い、矜羯羅(こんがら)童子と制叱迦(せいたか)童子を両脇に従えた憤怒の不動明王が濃茶褐色の画絹に描かれている。
平安時代からの秘仏として代々、青蓮院に受け継がれて来たという不動明王は大日如来の化身として、天変地異の災い治め煩悩を焼き尽くし、衆生を救うため憤怒の姿で現れた密教の仏さま。
五色(青、黄、赤、白、黒)で表された、不動明王の「青不動」は最上位という。
青不動は縦203・2cm、横148・5cmの絹地に描かれた画像で、平安中期の作。燃えさかる炎を背景に、青を基調とした不動明王が、迦楼羅(かるら)と呼ばれる火の鳥や、脇侍の2体の童子などとともに平安期の不動画の最高傑作にふさわしい威厳と荘厳さをもって描かれている。華頂殿 襖絵 蓮
龍心池(伝相阿弥作庭)青不動明王に礼拝する僧侶宸殿昭和45年の大阪万博など過去3回にわたり外部で展示されたが、今日に至るまで一般公開されておらず、境内での開帳は初めて。
現在、青蓮院の本堂に祀られている青不動明王像は複製を開眼したもので、本物の青不動は国宝の中でも貴重なものであるため、特に厳しい保存条件のもとで保管されているという。霧島の庭から好文亭につづく(伝小堀遠州作庭)
大玄関(車寄せ)青蓮院門跡は三千院、妙法院と並んで天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡の一つとして古くより知られる門跡寺院で天台宗の京都五箇室門跡(前述の三門跡と曼殊院門跡、毘沙門堂門跡)、いわゆる五ヶ室の一つでもある。
回遊式の庭園が美しく、春と秋にはご本尊の熾盛光如来にちなんだ光の演出を行う夜間特別拝観と庭園ライトアップを実施している。
拝観時間は午前9時から午後5時と午後6時から午後10時(夜間ライトアップ)
拝観料は大人1000円、中・高生400円、小学生以下(保護者同伴で)無料

筆者PC変復調装置(Modem)故障によりblog更新不可能なこと深くお詫びいたします。

2009年11月12日木曜日

大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)

拝殿
方除けで知られる大将軍八神社は、一条通の商店街の中にある方除けで知られる大将軍八神社は北野天満宮の南西、一条通の商店街の中にある。創建は延暦13年(794)桓武天皇の勅願により方位守護の神として、内裏の北西角、(風水の天門)の地に勧請されたと伝えられる。「大将軍八神」の額と中央に「鏡」
大将軍は陰陽道の方位神であり三年周期でその位置を移動する創建当初、平安時代末期から室町時代には「大将軍堂」と呼ばれていたが「大将軍社」と改められた。その後、陰陽道を祀る暦神「八将神」と習合して「大将軍八神宮」と称され、明治以降は、現在の名称へと変更された。
本来、祭神は大将軍というが明治の神仏分離令にて主祭神は素盞鳴尊と改められた。理由は、1340年から(大将軍堂)約100年の間祇園社(現 八坂神社)の管理下にあったという。五体合せて八体の方位神
各三体ご守護神がいる大将軍とは方位を司る星神で、「大将軍がいる期間にその方位を犯すと厳しいとがめを受ける」と恐れられていた。元は中国の風水思想から起こった道教の信仰で陰陽道と共に日本に入って来たといわれる。
大将軍は陰陽道の方位神であり三年周期でその位置を移動する。巳午未の年には東、申酉戌は南、亥子丑は西、寅卯辰には北に位置し、その方位を塞いでいる。俗に、「三年塞がり」と呼ばれる!
とくに建築や転居、旅行など方角の吉凶を司る神であるため、平清盛が福原遷都等、陰陽師に対策の相談や源頼朝が養和元年の京都侵攻を断念等々は、大将軍が方位を塞いでいたからだという。その時々の権力者達も陰陽道・星神天大将軍の方位を厚遇し、長きにわたり朝廷・武家・一般民衆の間に広く浸透していった。大杉大神と豆吉明神
方徳殿前の大将軍神半跏像境内には方徳殿があり木造大将軍神像80躯(重要文化財)が収納されている。
平安時代中期から末期にかけての制作ですべて男神像、甲冑を着用した武装形の像や束帯姿の像、童子形の像合わせて80躯が昭和47年(1972)に重文指定にされた。いずれの像も独特の表情、装束で異彩を放っており、興味深い。破損の多い像もあるが、古い神像が多数まとまって伝来する例は大将軍八神社の他になく国の重要文化財に指定されている。
これらの文化財を収めた方徳殿は毎年「5月1日~5月5日と11月1日~11月5日」その他に渋川春海奉納の天球儀など多くの文化財を有し、春と秋に特別一般に公開されている。(その他の日は予約制)鳥居をくぐると右手に手水舎がある
「招霊(おいたま)の木(神代榊)」と権現八棟造
大将軍八神社は、平安朝以来王城守護の神として方位の災厄から守護する霊験あらたかな神として、祇園、日吉、賀茂社と同列に歌われている。
<大将軍八神社>
場所:京都市上京区一条御前西入ル 電話:075-461-0694
境内:無料(方徳殿は500円、特別公開時以外は要予約)
      拝観時間は9:00~17:00まで
     ※特別公開期間 春期:5月1日~5日 秋期:11月1日~5日
交通:市バス北野天満宮前下車、南西200m。又は、市バス北野白梅町下車、
    南東300m。嵐電北野白梅町駅より徒歩約7分
障害者:拝観可

2009年11月10日火曜日

長岡京ガラシャ祭2009

京都府長岡京市・勝竜寺城公園一帯では、今年も「長岡京ガラシャ祭」が開催され、18回目を迎えた。
細川ガラシャ(本名・玉、1563/1600)は、尊厳と人間愛を貫いた
ガラシャが細川忠興と輿入れし、つかの間の幸せな新婚の時を共にした勝竜寺城安土桃山時代の装束に身を包んだ約900人の行列は長岡第六小学校を12:45に出発、長岡天満宮を左折してアゼリア通りに入り市役所へ西国街道(一里塚)南へ進む~JR長岡京駅を経由14:00ごろ勝竜寺公園に到着した。
その後、15:00からガラシャが細川忠興と婚礼の儀を再現した。ガラシャ夫人遺品手ぬぐいこの水は、夫忠興と勝竜寺で過ごした日々、水面にその姿を映した歴史とロマンが感じられる
戦国動乱の渦中に生きた悲劇のヒロイン、細川ガラシャゆかりの地・勝竜寺城公園一帯にはガラシャ通りもあり歴史とロマンの城として名高い。
南北朝時代、勝竜寺城を築いた平安時代、清少納言勝竜寺城は、暦応2年(1339)に細川頼春が京都へ進出してくる南朝方に対抗するため、北朝(足利尊氏)方の前線基地として築いたといわれ、京都盆地の南西部を防備する要所であった。また、永禄11年(1568)には織田信長が上洛し西岡一帯を攻略し、細川藤孝(のちの幽斎)に城が与えられ、堅固な城に改修した。
16歳の時に坂本城より、勝(青)龍寺城の息子、忠興に嫁いだ天正6年8月にお玉を妻に迎えたそれ以後ガラシャは中世の戦乱の大きな渦に巻き込まれ、子ども肉親兄弟と離別を余儀なくされ、丹後の山奥に幽閉された。明智光秀の三女で、本名を「玉」と言い、天正6年(1578)8月(今から430年前)に16歳で、織田信長の命により政略的に乙訓地域を支配していた勝竜寺城主の細川藤孝の長子・忠興のもとに嫁ぎ、幸せな新婚時代を過ごしていた。明智光秀の妻、熙子(ひろこ)は生活に困り自分の髪を売って金の工面をしたというキリスト教徒の侍女、清原マリア
ところが、天正10年(1582)父・光秀が主君信長にそむいた「本能寺の変」が起き、その後、光秀も討たれたため、ガラシャは「逆臣の娘」になった。
しかし、そんな中においても、貧しく弱い人々に身分の分け隔てをこえた人間愛の心を常に持ち続け、ガラシャはキリスト教に心の平安を求め、ついに洗礼を受け、細川ガラシャ夫人と呼ばれるようになった。
ところで、「ガラシャ」と言う名は洗礼名で『恵み』という意味だという!長岡京市住いのガラシャ役の方と忠興は、やがて結婚の予定で会場からは二度おめでたの拍手が起った!
ガラシャが細川忠興と「婚礼の儀」を再現したその2年後、豊臣秀吉の計らいで忠興との復縁を許された。
幽閉を解かれたガラシャは大阪城下の細川家屋敷、その頃秀吉がバテレン追放令を出しキリスト教を信仰することを禁止。忠興はキリスト教に改宗した家中の者を追い出したが、ガラシャは幸いにも発覚を免れた。
やがて、徳川家康と石田三成の関ヶ原の戦いが激化、三成は家康方の大名である細川家のガラシャを人質に取ろうとするが、ガラシャは拒み、兵に屋敷を囲まれると家臣小笠原少斎の槍で胸を突かせ悲劇的な最後を遂げた。細川護煕元首相の妻、佳代子さんやアメリカからの友好姉妹都市の人もおった
15時から婚礼の儀が再現した慶長5年(1600)7月、細川ガラシャは享年38歳の若さでこの世を去った。
数々の苦難にあいながらも、気丈に信仰を守り続けた人生は、後世の人々に大きな感銘を与えている。
「細川ガラシャ」ゆかりの深い長岡京で「婚礼の儀」が再現し、最後は地元酒造会社から祝福のビールが会場にも配られた。
その他の写真

<勝竜寺城公園>
住所:〒614-0836京都府長岡京市勝竜寺13番1号
電話:075(952)1146
交通:JR長岡京駅東口南500m  阪急電車・長岡天神駅徒歩20分
時間:9時~18時(11月~3月/17時まで)
休日:毎週火曜日