夢二の大正ロマン夢の世界が京都高島屋7階グランドホールで1月25日まで行われている。
数々の美人画も残されているが、彼自身の独特の美的センスによるもので味のある個性豊かな「夢二式美人画」で画風は綺麗ではないが、その表情豊かを感じた。本名は竹久茂次郎(たけひさもじろう)は明治17年(1884)~昭和9年(1934)日本の画家・詩人で岡山県邑久郡本庄村(現・岡山県瀬戸内市邑久町本庄)の造り酒屋に生まれた。15歳の時に兵庫県神戸尋常中学校入学するが、僅か半年で家の都合で中退した。
父が家業の造り酒屋を廃業、一家で福岡県八幡村に転居し茂次郎もしばらく製鉄所で働いた。
しかし明治34年(1901)17歳単身上京・家出して翌年早稲田実業学校に入学した。学生時代、スケッチを「読売新聞」などに投稿、第一賞入選、このとき、初めて夢二を名乗った。専攻科中退後、読売新聞社に入社し時事スケッチを担当した。
明治40年(1907)23歳で2歳年上の岸たまきと結婚・協議離婚、同棲などを繰り返し三児をもうけた。この年、最初の著書「夢二画集-春の巻」発刊、ベストセラーとなった。夏、房総方面に旅行のとき、詩「宵待草」を発想、曲が付けられて大衆歌として受け、全国的な愛唱曲となったことは云うまでもない。
明治45年(1912)月刊「夢二 ヱハガキ」発売や雑誌「少女」誌上に、“さみせんぐさ”の筆名で「宵待草」原詩を発表するなど京都府立図書館にて「第一回夢二作品展覧会」が催された。
日本橋呉服町に「港屋絵草紙店」を開店し、順風のところであったが、夢二30歳、来店した「笠井彦乃」と出逢ってしまった!女子美術学校の学生であった彦乃は裕福に育ち、夢二のファンであり、絵を習いたいと訪ずれ、付き合いが始まった。夢二はたまきと別れ京都に移住、彦乃としばらく同棲するが、大正7年(1918)九州旅行の途中、別府温泉で結核を発病し東京に連れ戻され御茶ノ水の順天堂医院に入院、短い生涯を終えた。夢二は面会を遮断されたという。生涯最も、彦乃を愛しており、死後ショックから立ち直れなかったという。夢二36歳、彦乃25歳大正9年(1920)1月16日である。
このころ、秋田の出身で東京美術学校のモデルだったお葉(夢二が名付親・本名は佐々木カ子ヨ)が滞在、同棲が始まった。お葉16歳、夢二37歳渋谷に所帯を持ったが6年後に離別した。
有名な絵画作品で「黒船屋」はお葉がモデルである。
大正15年(1926)42歳この頃から夢二は、海外旅行を欲望した。また群馬県榛名山麓伊香保に滞在し生涯の「榛名山美術研究所」として構想を練る日々だった。
昭和6年(1931)5月横浜を出航し、ホノルルを経由して渡米、1年3ヶ月の滞在、西海岸各地にて個展を開くが悉く不調に終った。
9月に大西洋を経て渡欧、約1年の滞欧中、諸都市を巡り日本の雑誌に寄稿し、多くのスケッチ画を残したのである。昭和8年(1933)10月台湾に渡るが体調を崩し帰国、結核を患って病床についた。
昭和9年(1934)長野県八ケ岳山麓の富士見高原療養所に入院療養の甲斐も無く、9月1日早暁、「ありがとう」の言葉を最後に永眠、満49歳11ヶ月で逝去した。戒名は「竹久亭夢生楽園居士」。
大正浪漫を代表する画家であり詩人で児童雑誌の詩や挿絵も描いた夢二は、多くの書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの草分けのひとりともいえる。
さまざまなジャンルに挑戦し女性像や風景画も残されている。
夢二は中央画壇への強い憧れもあったが叶わず、終生、大衆人気というかたちで新しい美術のあり方を模索つづけた。夢二は「何度見てもけして飽きることのない、ここにしかないものを作る」そのため、創意と工夫を重ねる。代表作「黒船屋」をはじめとする美人画、数々のデザイン画、水彩画、素描などが展示している。
夢二の夢の世界「大正ロマン」は、榛名山産業美術研究所の構想や、先進欧米視察への野望が既にこのときから潜んでいたのかもしれない!
<竹久夢二展>
会場:京都高島屋7階グランドホール
日時:2010年1月6日~1月25日10:00~20:00(25日最終日は17:00で閉場)
料金:一般800円 大高生600円 中学生以下無料
障害者無料
電話:075-221-8811(会期中無休)
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