藤原種継暗殺事件である。当時、長岡京造宮司であった種継は早良親王と敵対しており、親王が暗殺事作の首謀者と見なされたのだ。
早良親王は、桓武天皇の同母弟である。
朝廷はさっそく諸陵頭調使王(しょりょうかみずしおう)らを淡路国へ遺わし、奉謝を行った。
連続する天変地異、天皇の周辺に連続して起こる近親者の死。早良祟る、の思いは桓武天皇をはじめ為政者たち共通の思いであった。800(延暦19)年7月、桓武天皇はついに早良親王に「崇道天皇」の尊号を贈った。-『学研 天皇の本』-
これが上御霊神社の始まりとされる。
御霊とは、政争に巻き込まれて非業の死をとげた人の霊のことであり、当時はしばしば悪疫が流行し、これを御霊の祟りと考え、祀ったのである。
社殿は1755(宝暦5)年、禁裏の内侍所の建物を賜って造営したという。
天災や疫病が流行すると御霊をまって鎮め、災いを無くそうとした御霊信仰があり、人間関係や仕事などのストレスのこころの病気を治して、いつも平常心でいられるように、いまも人々は心を鎮める御霊神社のお守りを授かっている。
同神社では5月18日に御霊祭が行われ、境内の拝殿には提灯や巡行する三基の神輿も飾られた。つづく・・・
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