何事も 成せばなるてふ 言の葉を
胸にきざみて 生きて来し我れ (順教尼)
大石順教尼は1888(明治21)年、大阪道頓堀の生まれで本名「大石よね」といった。
幼少の頃から山村流に師事し名取となった。大阪堀江の芸姑への道めざし、芸者・妻吉(つまきち)と名乗り、「山梅楼(やまうめろう)」の雇われ芸姑として主人中川萬次郎の養女になった。
1905(明治83)年6月21日、17歳のとき、恐ろしい悲劇が起った。
舞踊の修業を指導していた養父が狂乱、一家5人を斬殺、堀江廓六人斬で巻き添えとなり両腕を失うが奇跡的に唯一人生き残った。事起こりは、養父の萬次郎が内縁の妻が男と駆け落ちした事から酒に溺れて狂乱し、同居していた内縁の妻の母親、弟、妹、姪と養女の芸奴二人も巻き添えにして、五人を惨殺、堀江六人斬事件が起こった。
日本中を震撼させたこの恐ろしい惨劇は、若干17歳の妻吉(大石順教尼)にも降り懸かり両腕を切断され、顔に切り傷を受けたが、唯一人一命だけは取り留めた。
三年後、巡業中の旅先で鳥かごのカナリヤを見て心打たれた!親鳥が雛に口で餌を運ぶ姿を見て、鳥は手が無くても懸命に生きることに気付いた。
よねは、カナリヤの姿に一念発起し、口に筆を含み書や絵を描くという修練に励んだ。また学問は小学校に通って字を習い独学で書道を習得したという。
1933(昭和8)年出家・得度し名を「順教」と改め、1936(昭和11)年、勧修寺境内に身体障害者福祉相談所を開設、さらに1951(昭和26)年、仏光院を建立した。
両手のないままに口に筆をくわえて書画を描く精神は、非凡な才能を示し1955(昭和30)年、日展に入選した。また1962(昭和37)年、日本人として東洋に最初の世界身体障害者芸術家協会の会員にも選ばれた。
仏光院の境内には草庵跡、吉井勇の歌碑に
“そのむかし 臙脂(えんじ)を塗りしくちびるに
筆をふくみて書く文ぞこれ”
観光寺院ではなく、小さな庵という印象の寺だが今でも多くの人々に慕われている。
<仏光院>
拝観:自由
場所:京都市山科区勧修寺仁王堂町16
交通:地下鉄 小野駅徒歩約5分
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