つづく・・・平安京の玄関口を偲ぶ“矢取地蔵”は別名、矢負(やおい)地蔵とも呼ばれ、九条千本の羅城門跡にある小さなお堂に祀られている。
平安時代初期のこと、嵯峨天皇の命で造営された東寺と西寺は、その勢力を競っていた。東寺には今に続く真言宗の開祖・空海がおり、一方の西寺には守敏(しゅびん)という僧がいた。![矢取地蔵は別名、矢負地蔵とも呼ばれている](https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgk0oZVFICEZFLe6d0R0WgdsMMLe19J4MV3sulc_mlrP2R7L5nkBWCW2up7qfticXO66N88Q6_0AhREsHseGHgMuYr7y3zMjYbQWSgCqjXzivU4TKAki9N1dOOCcjQwyyJSioGsRL1mI9yv/s200/P1130817.JPG)
824(天長元)年夏、日照りが続き人々は飢えと渇きに苦しんでいた。
ときの天皇、淳和天皇は空海と守敏に神泉苑(京都市中京区)で雨乞い祈祷を命じた。先に西寺の守敏が17日間祈念を続けたが、雨は降らなった。
次に、空海が願をかけると、天竺の無熱池に棲む善女龍王(ぜんにょりゅうおう)を勧請し、降雨祈祷を行い、みごとに三日三晩にわたって雨が続いたという。
「雨乞い合戦」は空海に軍配が上がった。
これにより、神泉苑において雨乞いの儀式が行われるようになったといわれる。![矢負地蔵由来記](https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhcCUhKYK0JgOeD9RUunFh7zIRzZuWEiLhb5lc38N04awoD82Fk5h6nJzpYHHm82JJGiM-yWsIGJ767hGlrTYpSKOo0T69fWHVI5_dZ-ZwiENdUalzWrr62cAAauavwlBcBl4hCcuUT2xHU/s200/P1130822.JPG)
合戦に敗れ、面目をつぶされた守敏は空海をねたみ、羅城門近くで待ち伏せし後から矢を放った。するとそこに一人の黒衣の僧が現れ、守敏の矢を右肩に受け、空海は難を逃れたという。空海の身代わりになった僧は、実はお地蔵さまの化身であり、のちにそのお地蔵さまは「矢取地蔵」とか「矢負地蔵」と呼ばれ、人々の信仰を集めてきたという。
石造、本尊矢取地蔵尊は高さ約160cm、別名「矢負地蔵」と称され、右肩に矢傷の跡が残っていると伝えられている。
小さな地蔵堂は1885(明治18)年地元 唐橋の(八条村)人々により寄進され建立された。なお昭和初期には、地蔵堂の周辺から多数の地蔵が発掘され、現在も堂宇の右側に祀られている。「その昔、この辺りは刑場があり、お地蔵さんは打ち首になった人の供養塔・・・だが、お地蔵さんは“子どもの守り本尊”で大事にしたい」と地元の人は話している。![堂宇の右側に地蔵が多数祀られている](https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgPo3b9TT-OOHWcL40yq7Ir56sPeMo-Wj5FnWXUfASzv8_Kml1BRDROmAeMJdbH0XQ0vobMYZ4dz8-SxtvV1HU8ZfWSeJ3DLbB1OntjfXTpLbehQM1ao8huU_hRGPVtf4UbE_CYPCez41J8/s200/P1130820.JPG)
四季の花々が手向けられ、地元の人々が手を合わせ、大切に守られてきた様子が伝わってくる地蔵堂「矢取地蔵尊」は今日もまた優しい顔で民衆を見守っている。
(完)
<矢取地蔵堂>
場所:京都市南区唐橋羅城門
交通:市バス羅城門直ぐ
平安時代初期のこと、嵯峨天皇の命で造営された東寺と西寺は、その勢力を競っていた。東寺には今に続く真言宗の開祖・空海がおり、一方の西寺には守敏(しゅびん)という僧がいた。
ときの天皇、淳和天皇は空海と守敏に神泉苑(京都市中京区)で雨乞い祈祷を命じた。先に西寺の守敏が17日間祈念を続けたが、雨は降らなった。
次に、空海が願をかけると、天竺の無熱池に棲む善女龍王(ぜんにょりゅうおう)を勧請し、降雨祈祷を行い、みごとに三日三晩にわたって雨が続いたという。
「雨乞い合戦」は空海に軍配が上がった。
これにより、神泉苑において雨乞いの儀式が行われるようになったといわれる。
合戦に敗れ、面目をつぶされた守敏は空海をねたみ、羅城門近くで待ち伏せし後から矢を放った。するとそこに一人の黒衣の僧が現れ、守敏の矢を右肩に受け、空海は難を逃れたという。空海の身代わりになった僧は、実はお地蔵さまの化身であり、のちにそのお地蔵さまは「矢取地蔵」とか「矢負地蔵」と呼ばれ、人々の信仰を集めてきたという。
石造、本尊矢取地蔵尊は高さ約160cm、別名「矢負地蔵」と称され、右肩に矢傷の跡が残っていると伝えられている。
小さな地蔵堂は1885(明治18)年地元 唐橋の(八条村)人々により寄進され建立された。なお昭和初期には、地蔵堂の周辺から多数の地蔵が発掘され、現在も堂宇の右側に祀られている。「その昔、この辺りは刑場があり、お地蔵さんは打ち首になった人の供養塔・・・だが、お地蔵さんは“子どもの守り本尊”で大事にしたい」と地元の人は話している。
(完)
<矢取地蔵堂>
場所:京都市南区唐橋羅城門
交通:市バス羅城門直ぐ
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