つづき・・・新日吉神宮は、東山七条を東に豊国廟参道、通称女坂・京都女子大の前にある。
「いまひえ」と呼ぶこの神宮は、後白河天皇が滋賀県坂本の日吉(ひよし)大社から神々を迎えて祀った神社だと伝えられている。新日吉祭は、社の創立後二年目よりはじめて祭儀が行われたが途中長らく中絶した。
1655(明暦元)年、江戸時代、後西天皇により小五月会(こさきのまつり)の名称もそのままに復興した。この“小五月会”は宮中の儀式で、この儀は、大内裏(だいだいり)の武徳殿で行われ朝廷の大切な年中行事として、後白河上皇・法王が臨幸、大臣以下公卿(こうけい)上人も多数奉仕して行われるものだった。
1781(天明元)年より五月九日を五月十四日改められ氏子巡幸の儀になり現在に至った。
正午、本殿では坂本の日吉大社から宮司を招き、氏子稚児三人を神霊に移す神事を営まれた。拝殿では神職以下、お供え物(8種)をあげて神事がおこなわれた。
拝殿前では神幸列出立祭が行われ神宮の入口、豊国廟を背後に日吉馬場には、別当の祝詞と妙法院門跡の読経が行われる神仏混交の珍しい祭が行われている。もの珍しさに、妙法院門跡にお話を伺ったが「行列に参加する氏子衆の安全と神輿や鳳輦の無事を祈っている」とのことだった。
現在も新日吉神宮の神職と妙法院門跡が神幸の儀を行い、神輿や鳳輦の無事を祈っている。神宮の神職と妙法院の住職が「今年もよろしゅう」と声を掛け合っているのは確かに不思議な光景にみえた。
そのあと午後1時から鳳輦、稚児武者行列の巡行が行われた。
行列は、7.5kmの道程で七学区に及ぶ氏子区域で、鳳輦(ほうれん:御神霊を乗せ、頭に鳳凰が付いている御輿)を中心に行ない5時ごろまで練り歩く。また今年は剣鉾が一基、繰り出されているが高さ7m重量30数㌔、3人の人が交互に持って披露していた。裃を着た祭礼に参加していた長老に聞いてみたが一般素人ではなくプロに依頼していると言っていた!
稚児・武者大将の男女が乗った車は厄除けちまきを沿道の観客に配っていた。
貰った人は大喜びだが、当の稚児は写真を撮られたり声をかけられたりで注目の的なのが恥ずかしいらしく、始終うつむきかげんではにかんでいた。
本当に「可愛い~~」愛らしい様子だった。
巨大な石のある方広寺・豊国神社前では露店も並び観光客や氏子区域の人々と家族連れらで賑わい行列を楽しんでいた。
新日吉祭は800年もの歴史があり神事と仏事の両方が行われる珍しい行事だった。
(完)
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