中央に心字池があり、大小五つの中島に土橋、板橋、石橋を渡し、その周りに書院など七つの茶亭を配した回遊式の庭園は日本庭園の傑作である。 苑路を進むと池は全く姿を消したり、眼前に洋々と広がったり、その変化に驚いてしまう!
桂離宮には真(しん)行(ぎょう)早(そう)の三つの飛石があり、庭の敷石で長方形の切り石と自然石とを組み合わせた延段の飛石の変化を楽しみつつ、入江や州浜・山里で深く四季折々映し出される自然の美を味わいたい!
桂離宮の起こりは江戸初期1615(元和元)年頃に桂の地を得られ、35年の歳月をかけ完成された八条宮家の別荘として造営された。
この地は古くから貴族の別荘地として知られ、桂と謂う地名も中国の「月桂」からの由来だとされている。近くの松室には月読神社もあり、風流な観月の名所としても知られていて平安時代には藤原道長の別荘が営まれていたという。作庭は“小堀遠州”ではない!しかし、庭園、建築は遠州好みの技法が随所に見受けられ、智仁・智忠親王の趣味趣向や工匠、造園師らの技が一致したものである。
桂離宮の歴史は、後陽成天皇の弟・初代・智仁親王は、初め豊臣秀吉の養子となったが、秀吉に実子が誕生したため、八条宮家(桂宮家)を創設したものである。
親王が40歳台前半に古書院が建設したが死没後10年余り山荘も荒廃していた。二代智忠親王は加賀前田藩主の息女と結婚され山荘復興・増築に意欲的に取り組んだ。1662(寛文2)年ごろは、中書院、新御殿、月波楼、松琴亭、賞花亭、笑意軒等を新増築された。
表門は、檜丸太を門柱とし、磨き竹を縦に隙問なく打ち並べてある。その少し奥に茅葺切妻屋根を棈(あまべき)という自然木の皮付丸太で支えた御幸門がある。
この門は、後水尾上皇をお迎えするのに当たり智忠親王が造られたと伝えられるが、その後失われ、家仁親王の時に再建されたという。
御幸道の中ほどから左に折れ苑内に入ると外腰掛(そとこしかけ)がある。茅葺寄棟造りの深々とした感じの屋根を皮付丸太で支えるだけの吹き放しで、雪隠(せっちん)便所が付いている。
茶室・松琴亭の待合い腰掛であり、前を自然石と切り石を巧みに配した延段が長く延び、両端を二重桝形(ますがた)の手水鉢と丈の低い灯籠で引き締めている。対面は蘇鉄山であり、蘇鉄は薩摩島津家から献上されたと伝えられている。
桂離宮で最も格の高い茅葺入母屋造りの茶室で“一本の切石”を渡した橋を渡ると「松琴亭」である。橋を渡る手前から松琴亭屋根の妻に「松琴」の扁額が見える。
後陽成天皇の宸筆で、「琴の音に峯の松風通ふらし・・・」の句から採られている。
にじり口の内側は三畳台目(茶室用の畳)の本格的な茶室で、遠州好みの八窓の囲いである。松琴亭外観は、東、北、西の三方から眺めるとそれぞれに異なる風情が楽しめる。
北側廊下の竈(かまど)構えと一の間の床や襖の青と白の市松模様は大胆かつ柔軟な発想と創意によるもので、そのデザインは現代になおいきいきと相通ずる斬新さをもっている。
二代智忠親王は父の後を譲り受け、研ぎすまれた美的感覚は池や庭園でもわかるように今日に見るような山荘の姿に整えられたのである。後半つづく・・・
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