「流鏑馬」は毎年5月3日葵祭(5月15日)の前儀として行われる行事のひとつ。
葵祭の当日、御所より当神社へ至る行列の道中が平穏無事に行われるよう、祓い清めるために行われる神事。長年京都に住みながら一度も観る機会がなかった。
当神社では、境内の糺の森から古墳時代の馬具が出土した。また、『続日本紀』に「文武天皇2年(698)賀茂祭(葵祭)の日に民衆を集めて騎射を禁ず」とあり、葵祭の日の騎射に大勢の見物人が集まるため三度も禁止令が出るほど、有名になっていて、古くから行われていたことがうかがえる。
葵祭の前儀流鏑馬神事は、儀式の最初の三馳を伝統によって騎射と称し、作法や装束、用具などは古来からの法式によって近衛府(このえのつかさ)の大将が長官となり、近衛府の将監(じょう)や将曹(さかん)、馬寮の助や允、あるいは当神社の氏人が騎射を行った。その後で武家が狩装束を着け、流鏑馬を行うのが習となっている。
葵祭の路頭の儀が中絶したことによって騎射もまた中絶し、神事は中断した。武家は各地で流鏑馬として盛んに行うようになった。元禄7年(1694)、葵祭が再興されたとき、騎射も伝統の作法により再興されたが、明治2年(1869)東京遷都祈願行幸のときに行われた後、ふたたび中絶することにいたった。
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