2011年11月30日水曜日

史跡 恭仁宮(くにのみや)・山城国分寺跡

いにしえより大切に守られてきた数多くの文化財、豊かな自然に囲まれた当尾の里、京都府加茂青少年山の家の施設で “木津川市名産弁当”の昼食をいただいた。大極殿(仮復元、パンフから)
恭仁宮跡加茂町の将来の展望と特性や当尾地区の活性化などについて気軽に懇談した。さらに簡単に地場産業として壁紙製造工程を見学し、史跡・恭仁宮跡・山城国分寺跡の最終行程に向った。大垣は縦750m横560mスケールがデッカイ
恭仁宮跡は今から約1300年前、木津川右岸に瓶原(みかのはら)の地に都が造られ歴史の舞台となった。恭仁宮跡が立地する瓶原は、木津川市の東部、丘陵地に開けた加茂盆地を中心として北から瓶原、加茂、当尾と呼ばれて加茂町を形成している。町名「加茂」は、古代の神事を司るカモ氏に由来という。
史跡 恭仁宮は小学校の裏側740(天兵12)年、奈良時代、聖武天皇は疫病や戦乱に見舞われ、社会不安が全国的に高まる事態を一新するため、奈良の平城京からの遷都を決意し、山背(やましろ)国相楽郡恭仁郷を新しい都と定め遷都した。その後、紫香楽宮(しがらきのみや)、難波宮(なにわのみや)再び平城京へと移行した。奈良時代の708(和銅元)年以来、天皇が行幸した岡田離宮や瓶原離宮の他、古代の貨幣「和同開珎(わどうかいちん)」を造る鋳銭司も営まれたという遺跡が残っている。
12月、突如聖武天皇が恭仁京遷都を宣言し東国行幸の後、平城京に戻らず、瓶原に造営され恭仁宮に入った。宮殿の造営は急ピッチで行われ、平城宮より政治の中心となる大極殿や朝堂院、周囲を取り巻く回廊などが移築されという。
焼失された基壇が残っていた恭仁宮は、それまでの都に比べ規模も小さく、わずか5年あまりの短命な都であったが、この間に諸国に国分寺・国分尼寺建立を命じたり、墾田(こんでん)永年私財法や重要な政策を行い、日本の中心的な役割を果たした。またこの時期に大仏造営にも取り掛かっている。746(天平17)年、安土桃山時代、平城京に都が戻った後は、山城の国の国分寺として再生し、七重塔が造営された。国分寺は落雷によって火災した
山城国分寺の七重塔(仮復元・パンフから)今では大変珍しくなったが木造校舎の恭仁小学校のすぐ北側にある基壇が大極殿跡である。壇上には当時の礎石が点在し、壮大な建築物であったことを伝えていて、都の中心となる恭仁宮が造営され、木津・加茂・山城にまたがる壮大な都が計画されたという。
都の造営は5年ほどで終わり、宮殿の跡には山城国分寺が営まれ、現在も七重塔跡礎石が往時をしのばせている。文化財保護の係りの方に解説をいただいた。昭和11年室戸台風で壊され規制が強く2階建てにはならなかったという地で採れた食材の木津川名産弁当
盆地を取り巻く美しい山並みと点在する民家、東西に横切るように流れる木津川のせせらぎ、国指定の史跡の保存と今後の展望はいかに・・・加茂町の魅力を存分に感じてもらうと同時に、地域について理解を深めた充実した内容であった。最後に、この企画をされた「ふるさと相楽21」に感謝するとともに、M・Uさんや参加した方々のご好意に深く感謝申し上げる。(完)

2011年11月29日火曜日

浄瑠璃寺(じょうるりじ)

つづく・・・“ふるさと相楽21”の主催された「ふるさと再発見めぐり」は岩船寺、当尾の里の石仏めぐりの道を散策して浄瑠璃寺へと入ったが、俄然参拝客多くなった。紅葉と中心にある阿字池に写る阿弥陀堂
山門京都府南部の加茂町の南は奈良県に隣接し、奈良市や大阪、他府県ナンバーの車も多く見られた。
浄瑠璃寺は参道から山門までは直ぐで真言律宗の寺院で山号を小田原山という。行政区は京都府に属するが地理的に奈良の平城京や東大寺からも近く、恭仁宮跡(奈良時代に一時期都が置かれた)や山城国分寺跡(明日アップ予定)も近く、興福寺一乗院の末寺であったが、明治初期の廃仏毀釈の混乱期に、奈良・西大寺の末寺となった。
本堂の入口とモミジ浄瑠璃寺の起源は、平安時代の1047(永承2)年、当麻「たいま(現・奈良県葛城市)」の僧・義明上人が薬師如来を本尊として創建された。秘仏・吉祥天女像(パンフから作成)
山門を潜ると正面に池、左の高台には薬師仏を祀る朱色の三重塔、西側には本堂・阿弥陀堂がある。
本堂には9体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺(くたいじ)の通称もあり、古くは西小田原寺とも呼ばれた。当時京の都を中心に多数建立された九体阿弥陀堂の唯一の遺構である。
境内の伽藍配置は平安末期の本堂および三重塔が残り平安朝寺院の雰囲気を今に伝え、池を中心とした浄土式庭園形式は国の特別名勝に指定されている。大きな池は興福寺の恵信(えしん)という僧が掘ったもので、中央には小島があり、弁才天を祀る祠がある。薬師如来の三重塔
本堂の九体阿弥陀如来像(パンフから作成)浄瑠璃寺での礼拝は、三重塔へ参り東方浄瑠璃浄土に住み、薬師仏(過去から現世へと送り出す仏)に現世の苦しみの救済を願い、阿弥陀如来(来世の仏)は西方極楽浄土の教主である来迎を願うのが作法で三重塔のある東岸は「此岸」(しがん、現世)で、池をはさんだ西岸は阿弥陀如来のいる「彼岸」である。この三重塔(高さ約16m)は1178(治承2)年、京都から移設されたもので、本尊・薬師如来像(重文)は秘仏である。寺名は薬師如来の居所たる東方浄土『東方浄瑠璃世界』に由来する。毎月の8日、春・秋の彼岸の中日、正月三ガ日のみが開扉日という。三重塔は高台にあるので振り返ると池越しに阿弥陀堂(本堂)を眺めることができる。カエデが素晴らしくきれい!
池越しに紅葉を楽しむ浄瑠璃寺は創建当初、本尊は薬師如来であったが平安時代末期の60年後、1107 (嘉祥2) 年に九体阿弥陀如来を安置する現・本堂の建立だったという。
本堂には四天王像(国宝)と9体の木造阿弥陀如来像(国宝)などが安置され別名を九体寺・九品寺とも呼ばれている。一つの堂に9体もの阿弥陀如来像を安置するという発想は「九品往生」(くほんおうじょう)思想に由来する。阿字池に写ったモミジ
本堂の屋根とモミジ人間は信仰心や功徳によって下品・中品・上品に分けられ9段階に分けられ往生をするという。人間は死後、9品に振り分けられ9体の阿弥陀如来がそれぞれに西方極楽浄土へ導くという考え方である。1047(永承2)年、伽藍の原型は薬師如来を本尊とし、本堂が建立された1107(嘉承2)年に、9体の阿弥陀如来像を安置して新たに形作られたものと見られる。燈籠とススキとモミジ
三重塔は隠れてみえない!9体の中心となる阿弥陀如来中尊像の右横には子安地蔵菩薩像が祀られている。南端には左右に童子を従えた不動明王像、四天王立像(藤原時代作国宝)前には持国天と後に増長天の2体が安置されている。秘仏、美と幸福の女神・吉祥天女像(重文)が中尊の左横の厨子に納められ祀られている。山門の右脇に建つのは灌頂堂で堂内に祀るのは大日如来と弁財天の二つの秘仏で1月8日・9日・10日の三日間のみ開扉される。燈籠が一直線になり本堂の阿弥陀如来像が日光で輝り極楽浄土の世界を見ることができる
東の本尊・薬師仏を祀る三重塔彼岸の中日、池の反対側から本堂を見ると、二つの燈籠が一直線になり本堂の阿弥陀如来像が日光で光り輝く極楽浄土の世界を見るように設計されている。
つづく・・・
<浄瑠璃寺>
住   所:京都府相楽郡加茂町大字西小礼場(にしおふだば)40 
電   話:0774-76-2390
拝観時間:9:00~17:00(3/1~11/30)10:00~16:00(12/1~2/28)
拝観料金:大人300円
交   通:JR関西本線「加茂駅」からバスにて「浄瑠璃寺前」下車すぐ
駐 車 場:有り(有料)

2011年11月28日月曜日

当尾の里 石仏めぐり

つづく・・・美しい日本の歴史的風土100選や歩きたくなる道500選にも選ばれた京都府の南端にあり、付近一帯は当尾(とうおの)の里と呼ばれている。案内版
岩船不動明王磨崖仏(通称一願不動)
奈良県に隣接する山村で加茂・当尾には、中世のころ多くの僧が都を離れて居住し修行に専念していたという。歴史のある岩船寺と近くには九体阿弥陀仏で知られる浄瑠璃寺がある。また、点在する社寺の間を結ぶ道端には石塔・石仏(自然の岩壁に刻んだ磨崖仏)が多く見られ、それら総称して”当尾石仏群”と称している。中には鎌倉時代の年号を刻んだ石仏もあり、これらを見て歩くハイキングコースがある。ねむり仏(地蔵石仏)
わらい仏は右に観世音菩薩、左に勢至菩薩を従え、浄土への来迎を示している
「岩船寺」の存在を示す最も古い記録は、寺の西方にある岩船不動明王磨崖仏(通称一願不動)の名で知られているが、そこには1287(弘安10)年の年記とともに「於岩船寺僧」の文字がみえる。右に折れる道を下っていくと大きな岩に線刻された「不動明王立像」の磨崖仏に至る。小高い山が岩船寺、わらい仏岩船寺から降りた道
急傾斜の手すり付きの岩道がしばらく続いて、右半身が不自由なぼくには難儀だったが同行していた2,3人の方たちがサボートしてくれ感謝である。なおも急斜面の下り坂が続くやがて、「わらい仏」の案内板のある三つ角に差し掛かった。正面に「阿弥陀如来坐像」左側面に「地蔵菩薩立像」
唐臼の壷
「わらい仏」は、当尾の石仏の中で最も知られた阿弥陀三尊像で、右に観世音菩薩、左に勢至菩薩を従え、浄土への来迎を示しているとされる。わらい仏の左横に「ねむり仏(地蔵石仏)」、ボランティアの解説によると、この石仏は永い間土の中で休んでいて、「ねむり仏」の名が付いたとのことだ。阿弥陀仏の横には、線刻の灯篭や火袋に灯明を供えることができる廃寺、瑞巌寺址の石段
わらい仏とねむり仏を見てからは急斜面の手すり付きもなく下り道であった。
左側に「からすの壷」がある(「からす」とは、烏ではなく、「唐臼」の意味)。
右側正面に「阿弥陀如来坐像(1343年)」がある。阿弥陀仏の横には、線刻の灯篭や火袋に灯明を供えることができると話してくれた。また左側面に「地蔵菩薩立像(1343年)」が彫られているが注意しないと見落とかねない。あたご灯籠

瑞巌寺址の石段をみて、あたご灯籠を左に折れ、浄瑠璃寺案内板を通って、道の左側に「やぶの中三尊」がある。この三尊は最も古く年、1262(弘長2)年の銘あり、首切り地蔵とともに当尾の里の最古の石仏である。正面に地蔵菩薩、向かって右に錫杖を持つ十一面観音、左の岩には阿弥陀如来坐像が彫られている。きれいな紅葉
案内板
残念ながら「首切り地蔵」は時間の関係上、拝見出来なかった。次回は紅葉真っ盛りな浄瑠璃寺を更新する。
つづく・・・

2011年11月27日日曜日

加茂 岩船寺(がんせんじ)

晩秋を迎えた京都府南部、木津川市加茂エリアで11月27日(日)、第5回「ふるさと再発見めぐり」が開催された。この催しは、ブログ仲間の一人が既に申し込んでおられ、加茂町と云えば行く機会も無く快く誘いを受けた。
JR京都駅を8:03発普通奈良行乗車、木津川駅を経由し9:30ごろJR加茂駅東口に到着した。
薄曇りで肌寒く感じるが集合時間は9:35、木津川市のチャーターバスが待機していた。バスは18人の参加の人たちを乗せて細い登り坂の道を幾ども曲がりながら岩船寺へ向った。本堂
岩船寺山門岩船寺は聖武天皇の勅願と伝える天平の古刹で、創建は729(天平元)年、行基が阿弥陀堂を建てたのが始まりと伝わる。真言律宗の寺院で山号は高雄山(こうゆうざん)で本堂は1987(昭和62)年の再建である。
本尊は平安期の阿弥陀如来坐像「高さ2.8m (重文)」の大きな螺髪を付けた丈六の巨像で、946 (天慶9) 年に造立された。その周囲に四天王像が安置されている。厄除け地蔵菩薩(鎌倉時代作)
花崗岩に彫れた不動明王(重文)最盛時には三十九もの坊があったとされ栄えていたが、鎌倉時代に起きた戦火(承久の乱)により殆ど焼失したといわれている。その後、再興されたが江戸時代初期から衰退し現在に至っている。鐘楼
山門左にある石風呂桶山門左側には、寺号の由来となったと伝える、僧が身を清めた「石風呂」が置かれている。
左手に五輪石塔(重文)、その手前の祠には花崗岩に彫刻された厄除地蔵菩薩、その右手に石室があり中に花崗岩に彫刻された不動明王がある。この不動明王立像は、塔頭湯屋坊の僧が眼病を患い不動明王に平瘉を願ったところ完治、自ら不動明王を彫刻し安置し、眼病に悩む人々にご利益があるという。本堂前から望む三重塔
十三重石塔(重文)また、鎌倉時代末期の1314 (正和3)年、十三個の笠石を積み重ねた高さ6.2m、基壇から相輪まで完全に残る珍しいもので妙空僧正の造立と伝える十三重石塔(重文)が見られる。
平成15年に修復され朱色も艶やかな三重塔(通常、一層目の扉は閉められている)本堂の左横が阿字池で、高台に朱色も艶やかな三重塔が見える。三重塔は、仁明天皇が智泉大徳の遺徳を偲んで入滅十年を過ぎた承和年間(834~847)に宝塔を建立されたのが始まりだという(同寺縁起書)。その後、室町時代に再建された三重塔は、再建時の様式を良く残す建造物として、国指定の重文なっている。なお2003 (平成15) 年に大修理が行われた。塔の一層部の扉は通常閉じられているが、内部来迎壁には極彩色で描かれている仏画を特別公開することができる。吊り店は、地元で採れた野菜などを販売しているひなびた山寺の中にあるとは思えない、雰囲気のある三重塔である。岩船寺は江戸時代には奈良の興福寺の末寺であった。
いまアジサイの名所と知られ関西花の寺25番霊場・第15番札所となっている。また吊り店は、地元で採れた野菜などを漬物や干し柿等、吊って無人販売している。つづく・・・
<岩船寺>
住   所:京都府木津川市加茂町岩船上ノ門43 電話:0774-76-3390
拝観時間:8:30~17:00(冬期12月~2月は9:00~16:00)
拝観料金:大人200円
交   通:JR関西本線「加茂駅」からNCバスにて
        ◎「加茂山の家」行き約15分「岩船寺」下車すぐ
駐 車 場:有り(有料)

2011年11月22日火曜日

聖徳太子御火焚祭(おひたきさい)広隆寺

京福嵐山線三条通り「太秦(うずまさ)」駅の北側に広隆寺の大きな南大門(仁王門)が周囲を威圧するように建っている。
本堂・上宮王院太子殿
三条通りの南大門(仁王門)11月22日、広隆寺で聖徳太子の命日にあたるこの日、本堂に安置されている本尊の秘仏「聖徳太子像」と霊宝殿に納められている秘仏「薬師如来像」が開扉された。講堂前のカエデが紅葉していた
講堂は赤堂とも言うまた午後1時より本堂にて法要後、薬師堂前で「聖徳太子御火焚祭」護摩供養が行われた。美しいモミジ
桜が咲いていた広隆寺ではこの日、年に唯一度、非公開の本堂・上宮王院(じょうきゅうおういん)太子殿が一日公開され、黄櫨染(こうろぜん)の御袍(ごぼう)を纏(まと)った本尊・秘仏聖徳太子立像(1120年作)を拝見することができた。モミジとイチョウ
地蔵堂前のモミジ黄櫨染御袍は天皇が重要な儀式の際に着用する束帯装束で、天皇以外使用できない禁色とされていたものである。貫主は若い女性だった
法要後、ほら貝を吹く山伏が先導し薬師堂石畳の道を左にとって本堂と庫裡の間を北に進むと「弥勒菩薩半跏蔵」など多くの仏像を安置する“新霊宝殿”へと導かれ宝物館の秘仏薬師如来像を開帳していた。つづいて剣は初めて観た
斧が登場本堂での法要の後、ほら貝を吹く山伏が先導し、上宮王院太子殿を後に薬師堂前に設けられた護摩壇のある斎場へ場所を移し「聖徳太子御火焚祭」の火入れがはじまった。皆、山伏の合図によって手を合わす
が斎場前に弓矢を放つ御火焚の儀式はいろいろあるが、それぞれ山伏が斧と剣と弓矢で清めた。御火焚の種火が、祭壇のろうそくの神火から竹に刺した山伏の松明に移され護摩壇に差し込まれた。
僧職方も護摩木を炎の中に投げ入れた祭壇のろうそくの神火から竹に刺した山伏の松明に点火斎場は煙一面に包まれ、薬師堂、講堂、地蔵堂など参拝客の顔も見えなくなってしまった。白くモウモウと立ち込める煙の中に、赤い火柱が立ち上がる。煙は全ての人に御利益が降り注ぐように東西南北回った
左後方が大映通商店街、嵐電と三条通り広隆寺は秦氏の氏寺であり平安京遷都以前から存在した京都最古の寺院である。この近くには「三柱鳥居」で有名な木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)があって梅津の梅宮大社や嵐山の松尾大社も秦氏が関わりのある神社といわれている微笑み菩薩とも言う
また近隣には大映通り商店街や東映太秦映画村もあり賑わっている。広隆寺は国宝第一号の弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼざつはんかしいぞう)を蔵することで知られ、一切の衆生救う微笑を持たれ、聖徳太子信仰の寺でもある。毎年10月12日に行われる牛祭は京都三大奇祭として知られている。
<聖徳太子御火焚祭・広隆寺>
住  所:京都市右京区太秦峰岡町32 
電  話:075-861-1461
拝観時間:9:00~17:00(12月~2月は9:00~16:30)
     境内自由
拝観料金:(霊宝館)大人700円・障害者650円 
      桂宮院(国宝)春4月、5月と秋10月、11月の日曜・祝日に公開(有料)。
交  通:京福嵐山線「太秦(うずまさ)」駅下車徒歩2分
      市バス・京都バス「太秦広隆寺前」下車すぐ。