2009年11月30日月曜日

洛北鷹峯・光悦寺(こうえつじ)

参道は真紅がモミジのトンネルが続く
光悦寺は日蓮宗の寺院光悦寺は京都北の鷹峰街道が緩やかに伸びる坂道沿い鷹峯小学校向かいにある。鷹ヶ峰や鷲ヶ峰、天ヶ峰の鷹峰三山を見渡す景勝の地である。
紅葉シーズンで洛北鷹峰を回る人々で寺院は満員である。
光悦寺は日蓮宗の寺で山号は大虚山(だいきょざん)という。日蓮宗の題目本堂
元和元年(1615)に徳川家康より鷹峰一帯のこの地を与えられた本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)が一族や様々な工芸の職人などと移り住み、芸術の集落となったという。光悦は、江戸時代初期の芸術家で、刀剣の鑑定のほか、書、陶芸、絵画、蒔絵にも優れ芸術指導者として活躍した。本阿弥一族の墓(左から、他一族、光甫、光瑳)
本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)の墓晩年は創作、雅遊の日々を送り寛永14年(1636)八十歳でこの地で亡くなった。
また光悦の死後、屋敷は寺となり、その地に本阿弥家代々の位牌堂を建てた。
翌年の寛永15年(1637)には日慈上人(本法寺二世)を開山に請じて寺に改められた。境内には光悦の墓碑が見られる。垣根と美しいモミジ
大虚庵まえのモミジ表通りから菱形の石が敷き詰められた参道は、真紅に紅葉したモミジが美しく、さらに表門を抜けるとモミジのトンネルが続く・・・光悦寺は本堂以外、寺らしい雰囲気がない!芸術の集落の旧跡が寺に改められたためだろうか?
庫裡から本堂へ続く渡り廊下を潜り境内へと道はつづく。 “竹を斜めに組んだ垣根”「光悦垣」
鐘楼とモミジとバスガイドさん!
右前方に茶席・三巴亭が見える。その南側に光悦が終焉した茶席・大虚庵がある。現在の大虚庵は大正4年(1915)に再建されたもので、特徴のある垣根は有名な「光悦垣」。その姿から臥牛(ねうし)垣と呼ばれ徐々に高さの変る独特と呼ばれるもので“竹を斜めに組んだ垣根”である。 立ち止まってモミジを愛でていた
綺麗で表現の方法が見つからない!
ますます境内を歩いて感じるのは寺でなく、大虚庵を始め七棟の茶室などがあり、落ち着いた庭園山荘の雰囲気だった。茶道の奥義を極めたとされる光悦は、友人をはじめ、公家、武士などを招いては、茶宴を催していたのだろうとおもった。
<光悦寺>
京都市北区鷹峰光悦町29・電話:075-491-1399
・ 拝観時間:8:00~17:00(11月10日~13日は拝観不可)
・ 拝観料金:大人300円 障害者150円
・ 交通:市バス「鷹ヶ峰源光庵前」下車、徒歩約3分

2009年11月29日日曜日

洛北・源光庵(げんこうあん)

楼門二層部の「復古禅林」と書いた額
曹洞宗 鷹峰山寶樹林 源光庵25日水曜日、朝、某TV局が紅葉のシーズンで源光庵の有名な「丸い窓」や「四角い窓」が放送されたと言うニュースを病院リハビリ待合室でk氏から聴いた!
彼も同じ脳疾患の病で倒れ近隣の病院リハを受けてもう10年の歳月になる。
27日早速、源光庵を訪ねて見ることにした。本尊は釈迦牟尼仏
本堂源光庵は、洛北鷹峯(たかがみね)にあって曹洞宗の寺院で山号は鷹峰山。正式には鷹峰山寶樹林源光庵という。
本尊は釈迦牟尼仏で貞和2年(1346)、臨済宗大徳寺の徹翁義亨(てつおうぎこう)により隠居所として開基され初めは復古堂と言った。 書院で紅葉が楽しめる北山を借景とする枯山水の源光庵庭園
その後、元禄7年(1694)加賀の大乗寺の卍山道白(まんざんどうはく)禅師が再建され曹洞宗へ改宗された。また卍山道白は当時の曹洞宗の慣習を憂い、旧規の復古を願い自らを復古道人と名乗り、本堂に「復古禅林」を掲げたとう。このことから別名「復古禅林」とも源光庵は言っている。表門から参道を奥へ進むと、「復古禅林」の額に注目、左右に丸窓をもった珍しい楼門がある。
左手は本堂で右手拝観受付、履物は自分で持たなければならないが“気を使ってくださった”障害者の私には一寸した心配りが嬉しかった!角窓が「迷いの窓」
丸窓が「悟りの窓」書院に入ると北山を借景とする枯山水の源光庵庭園、色鮮やかな紅葉が楽しめる。暫く書院でぼんやり紅葉を眺めていると葉がはらはらと落ちていく光景が風情を漂わせている。次いで源光庵の名を広めた「悟りの窓」と「迷いの窓」を前にして座った。悟りの窓は円型に「禅と円通」の心を表し、円は大宇宙を表現しているという。迷いの窓は角型に「人間の生涯」を象徴し、生老病死の四苦八苦を表している。窓越しの庭園をしばし見つめ”禅の境地”に触れながら訪れた人々は紅葉がのぞく二つの窓を静かに見つめていた。
本堂に祀られている本尊釈迦牟尼佛にお参り、この本堂は元禄7年再建時の建物だという。血天井、足型跡
血痕が残る血天井頭上には、慶長5年(1600)7月に伏見桃山城で起きた戦いの遺構である。
家康の家臣で伏見城留守居役の鳥居元忠(とりいもとただ)ら千八百余名は、攻め込んできた石田三成軍と交戦したが力尽きてしまう。
残った三百八十余人は城内で自刃したという。それらを語り継ぐ痕跡で足形あり、手形ありで不気味で血痕が残り血天井といわれている。気分をかえて・・・総門の傍にあった紅葉
伏見桃山城の床板の一部を移したもので、これらの諸兵の菩提を弔っていて、文化財として維持している。京都では源光院のほか、血天井は5ヶ所もあると言う。
<源光庵>
・住所:京都市北区鷹峰北鷹峰町47 ・電話075-492-1858
・拝観:大人400円/障害者200円9時~17時
・交通:市バス「源光庵前」下車1分

2009年11月28日土曜日

京都・東山 永観堂 紅葉2009

受付がある大玄関
御影堂永観堂は、別名「紅葉(もみじ)の永観堂」呼ばれる京都東山随一の紅葉の名所として古くから京の人々に親しまれている。
永観堂は浄土宗西山禅林寺派の総本山、正式には禅林寺という。阿弥陀堂
多宝塔から永観堂をみる平安時代、仁寿3年(863)空海の弟子、真紹(しんしょう)が藤原関雄の山荘を譲り受け、尊像を安置し真言宗の道場として創建した。その後、一時衰えたが平安時代の末期、承暦年間(1077~1081)に、民間に念仏を広めた永観僧侶が住持となり、浄土念仏道場を流布し寺を中興した。永観はこれにより中興開山と呼ばれ、寺名も永観堂の通称で呼ばれるようになった。
以後、鎌倉時代中期には浄土宗西山派一派の本山の基礎を固めた。秋の陽射しを浴びる紅葉
放生池に映る紅葉その後、応仁の乱により堂舎が焼失したものの、明応6年(1497)後土御門天皇の命により再興し、以後、次々と諸堂が再建され現在に至っている。極楽橋から見た放生池と弁天島
眼にも鮮やかな真っ赤な紅葉総門から参道を進むと中門がある。
その右手の玄関へ入ると、室町時代の方丈とされ、釈迦堂は書院造り。
また唐門は天皇の出入りに使用される勅使門、勅使はこの盛り砂を踏んで身を清めてから中に進むという。放生池から流れる水辺と紅葉夢庵のまえで
進路は悲田梅を右に見て御影堂、阿弥陀堂に向う。
途中、臥龍廊や木魚蛙の案内もある。床の廊下は階段で手摺り無しでは上れない!葉先が3つに分かれている三鈷(さんこ)の松も珍しい。薄れ日が射す紅葉
銀杏の葉が落下して紅葉とマッチして感嘆の声が挙がる!いよいよご本尊「みかえり阿弥陀」が祀られている阿弥陀堂。制作年代はおよそ平安時代末期と考えられる。豊臣秀頼の命により永観堂に移築された。正面7間側面6間西向きの一重入母屋造り本瓦葺である。
「みかえり阿弥陀如来」は像高77cmで堂内は極彩色で格天井には百花が描かれ、両端の部分だけは白く塗った「散り蓮華」になっている。 微妙に紅葉の色彩が違う
大玄関前で多宝塔を望遠で・・・東山を借景に急な石段を踏みしめながら多宝塔に上ってみた。ここから見る京都の街並みの景色が一望できる。放生池には弁天島がある。御影堂から極楽橋渡り画仙堂に入ったが撮影は禁止。楓橋から寿橋さらに浴室と回った。言葉は何もいらない
昔も今も変わらず季節は廻るしかし、紅葉狩りの見学だけなら拝観料も払わず勿論、無料で外からこれらの諸堂を見ることも出来る。
"おく山の 岩がき紅葉 散りぬべし 照る日の光 見る時なくて"
と古今集にも歌われた「岩垣もみじ」をはじめ永観堂境内にある約 3,000本の紅葉は、写真参考としたい。
<永観堂>
・京都市左京区永観堂町48 ・TEL(075)761-0007
・市バス:5番「南禅寺永観堂道」下車徒歩約3分
・地下鉄東西線:「蹴上(けあげ)」下車徒歩約10分   
・駐車場:あり

2009年11月27日金曜日

洛北・金福寺(こんぷくじ)

家康ゆかりの寺、圓光寺から細い路地を南へ歩くと金福寺がある。
金福寺は、臨済宗南禅寺派で号は佛日山(ぶつにちさん)という。
芭蕉庵の扁額が架けられた庭園への入口
金福寺の表門は大きくなく石段を上る「一乗寺下り松」と言えば、かの有名な宮本武蔵が吉岡一門と決闘をした辺り、東方に比叡の山が聳えている。金福寺の表門は大きくなく、石段を上る山門があり右手が庭園となる。平安初期の貞観6年(864)、慈覚大師・円仁の遺志により創建し、大師自作の観音像を本尊として安置した。色鮮やかなモミジ本堂
天台宗の寺院であったがその後、一時期荒廃していた。
江戸中期の頃、鉄舟(てつしゅう)和尚が再興し、臨済宗南禅寺派となり現在に至っている。その頃、鉄舟和尚は、俳人の松尾芭蕉と親交があったことから芭蕉がよく訪れていた。その後、和尚は庵を「芭蕉庵」と名付けたと言われる。
この庭園は東の高台(後丘)に芭蕉庵があるが後に荒廃するという。 蕪村は、庵を再建した後は一門とともに訪れて句会を開いた高台には芭蕉庵がある
70年ほど後、与謝蕪村(よさぶそん)は芭蕉を慕って金福寺を訪れたが「芭蕉庵」の荒廃に歎き再興した。蕪村は、庵を再建した後は一門とともに訪れて句会を開いたという。その縁で、境内に蕪村の墓地があり68歳で京都で没した。
蕪村は芭蕉没後、俳壇に新風を吹き込み「俳諧の中興者」といわれている。
多くの俳人が愛したのであろう、蕪村の弟子・江村月居、吉分大魯、呉月渓や画家の呉景文、森川曽文なども金福寺で眠っている。重文「夜色楼台図」68歳で京都で没した
また、金福寺の左手入口には“村山たか女”が寄進した弁天堂がある。
村山たか女は彦根城主・井伊直弼(いいなおすけ)の愛人であった。
直弼は江戸で44歳のとき、大老職に就任した。
幕府は、将軍の世継ぎ問題や開国問題で揺れに揺れていた。
この時、反幕府勢力(攘夷派)の弾圧が実行された。“安政の大獄”である。反幕府勢力の動静を探り、その情報を長野主膳を通じて幕府(大老)に密報を集める密偵(スパイ)をかってでていたのがたか女である。井伊直弼筆和歌と長野主膳像
文化6年巳年に生れた、巳(白い蛇)は弁天様のお使い。たか女は深く信仰された少しでも役立ちたいと直弼を恋慕う村山たか女は、やがて、この弾圧の反動を受け、万延元年「江戸城桜田門外の変」で攘夷派の先鋒・水戸藩士により井伊大老は暗殺された。村山たか女も、勤皇の志士捕らえられ、京都三条河原で生晒(いきさらし)にされたが3日後女僧に助けられた。たか女は、女僧となって金福寺に入り、名を「妙寿」と改め14年のあいだ直弼の菩提を弔った。たか女の筆跡、遺品など伝わっている
たか女のお位牌なお、たか女のお位牌、筆跡、遺品など伝わっているとともに詣墓がある。本墓は約400m北にある圓光寺境内の墓地にある。
また弁天堂・舟橋聖一作の「花の生涯」のヒロイン村山たか女(妙寿尼)は、明治9年9月30日金福寺に於いて67歳の生涯を閉じた。
高台の芭蕉庵からは西山連山が望め、紅葉も美しい。
眺めていると野鳥の囀りしか聞こえない静けさで心が落ち着く。

<金福寺>
京都市左京区一乗寺才形町20  
TEL075-791-1666  
交通:市バス「一乗寺下り松町」下車、東へ徒歩約6分
    叡山電車「一乗寺」下車、東へ徒歩約9分